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微炭酸なココア#2【らしさなんて嫌いだ】

らしさって何だろう

先日、大学時代のアルバイト先の仲の良かった女性の先輩が結婚するという報告を受けて、直接祝うと同時に色々話を聞きたくて電話をした。

先輩は旦那さんになる男性や昔の恋人の話をしてくれた。その中で、ふと、「それに比べてさ、うたたネ君ってすごく女性らしいよね」と言われた。

きっと先輩に悪気はなかったと思うけど、僕は少し心がちくっとした。「うたたネってオネエなの?」と年に数回言われるので、ジェンダーという問題は僕に日々迫ってくる。

ストレート

ジェンダー問題なんて、自分には関係がないと思っていた。だって僕は女性が好きだし、女性へのときめきは野郎相手には生じ得ないものだから。僕はストレートで、でもLGBTの人たちの人権も大事だから多様性を大事にして生きていきたいと思うくらいだった。

僕の交友関係を振り返ってみれば、同世代の友人の8割が女性で、同性の友人のほとんどが目上の方ばかりだ。noteに登場する人物たちの性別からしても一目瞭然だと思う。思い当たる理由はいくつかある。

僕は母の支配下で育てられてきた。母の口癖は「あんたが将来亭主関白になろうがどうでもいいけど、奥さんが困ったときに家事が『できない』のと『しない』のは違う。いざという時に頼りにならない男はいくらお金が稼げても、家庭に安心をもたらすことは出来ない」というものだった。

これはおそらく、家事が全くできなかった父への反抗だったような気がする。その結果、僕も弟も家事が難なくこなせるようになって、母が病気になるたびに兄弟でご飯を作って、父は少し肩身狭そうにしていた。僕は心の中で思っていた。

「お父さんはお父さんで仕事を頑張っているんだから胸を張ってよ。」

僕は母の下で女性的に育てられたのかといえばそうでもない。昔からおしゃべりが好きだった僕はいつだって母に、「男は門を一歩出たら理由なく7人の敵に囲まれる。それなのに、お前はいつだって自分の弱みまでペラペラしゃべる。男なら口数を減らせ」と逆に男性としてのジェンダーロールに無理やり乗せられていた。

「男なのにべらべらしゃべるな。」
「男なのにすぐ泣くな。」
「お前が将来持つ家族が可哀想。」

その一方で、母自身はとても感情的な人で、僕たちが何か口ごたえしようものならすぐにぶちぎれて鉄拳が飛んできたし、友人たちと頻繁に長電話していた。スマホを持つようになってから、母も僕も長電話で通話代を圧迫した。なのに、ひどく叱責されたのは僕だけだった。

「女の人は沢山おしゃべりしないと死んじゃうから」

冗談交じりで笑う母に腹が立ったことを覚えている。

対して、父はそっと僕にウィルコムをくれた。今では死語かもしれないが、十分以内なら電話料無料のPHS端末だ。

「友達と話すときはこれでして。10分に一回切ってかけ直すくらいは出来るやろ?」と言った父の優しさがいたく胸にしみた。ちなみに母にももちろんPHSが与えられるも、母は10分を無視して電話代はかさんでいた。

女性の特権への反抗

我が家は圧倒的なかかあ天下だった。数年に一度父がキレると家が焼け野原になるのだが、それ以外の時は母の支配下にあった。母だけ、感情に任せて振舞う姿を見て僕は反発していた。(もちろんバリキャリだった母が家庭に入って熟す家事や母としての苦悩は計り知れないものがあったはず)

感情に素直になることも、自分の思ったことを友人と語りつくすことも、全て我が家では「女性の特権」になっていた。だから、僕は母に窘められるほど、おしゃべりになったし、泣き虫になった。小さい頃から沢山のいじめや困難に直面した僕に対して母は強くあることを望んでいたけれど、僕の心はどんどん他人の苦しみを共感する「弱み」に特化した。

結局、僕はオネエなのか?

女性の友人が多いことや、めんどくさいほど繊細なことから、たまに「オネエなの?」と訊かれる。僕からしたら不思議でならない。

なら、一体「男らしさ」ってなんだ?
美人につられてホイホイと浮気をすること?
女性が不機嫌な理由にいつまでも気づかずに鈍感な振る舞いをして神経を逆なでること?
Twitterでは、旦那さんの「ありえない」言動がつるし上げられて、何万もの「いいね」がついていたりする。その度にため息が出る。

男性であることで、「鈍い間抜けな奴」であることを社会から要請されている気がする。

そんなの知るかよボケ。

僕は感情を大切にしたい。
感情よりも大切なことがあってはならないと思っている。だからこそ、他人の感情や痛みに敏感で居ようと決めている。確かに、男性には一見鈍感そうな人が多い気もする。でも、果たしてそれは彼らの本心なのか?

ステレオタイプ脅威
自分の所属する集団が持っている社会的なイメージ(ステレオタイプ)を構成員が意識すると、自分自身もそうに違いないと考え、ステレオタイプと同じ方向に変化していく。

中野信子「人はなぜ、他人を許せないのか?」(p74-p75)

(例)
暴力的になる黒人
中学以降成績が急落する女子学生
そして、間抜けな言動をして女性に呆れられる男性

結局、僕のような共感性を大切にする「男性」が身近にいたとしても、それを「男性」とは認めずに「女性的」と自分たちの陣営に無意識に引き込もうとする。

最初から男性に変わって欲しい気持ちなんてないじゃん。
ただ、いつまでもサンドバッグにしたいだけじゃん。

自分らしさ以外に何が必要なの?

ステレオタイプというものは恐ろしい。意識の高い界隈では女性がジェンダーロールを降りることばかりが注目される。生きづらい女性が沢山いることも分かってはいるけど、これもまた、「生きづらさ」が女性の特権になっているような気がする。

男性みんながみんな心を躍らせて、目を輝かせて出社しているわけではない。生きるために、家族を養うために、心の余裕を失ってまで、気にくわない相手に頭を下げていたりする。そして、働かない旦那には「ダメ亭主」「ヒモ」などの値引きシールが貼られる。あんまりじゃないか?

こんな話をすると、「いや、私たち女性だって…」と水掛け論が始まる。

全く持ってナンセンスだ。
じゃあ、もし、どうしようもない外的要因であなたの性別が入れ替わったら、あなたはあなたじゃなくなるのか?性別のラベリングがあなたの存在意義の過半数を占めているのか?多様性を謳いながら、「息苦しさ」に性別を付けるのか?ゲイの人ばかりちやほやされるけど、身体が女性で心が男性の人の話はどうしてこんなにも浮かび上がってこない?

○○らしさってそんなに必要なのだろうか?




うち
ワイ
ワシ

一人称以上に必要ならしさってあるのだろうか?

僕も
私も
俺も
うちも
ワイも
ワシも

皆何かしら生きづらさを抱えている。
それ以外に何がある?

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。