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[小説] おこぼれコーヒー牛乳

    楓はひとりで居ることが好きだ。ひとりぼっちというものは世間的には残念に思われがちだけれど、楓はそうは考えていない。自分の世界でまったり過ごすことを楽しんでいる。
 だから、「ともだち100人できるかな」の世界の乗っかったまま大人になった人たちが、疫病の感染拡大による自粛でひとりの時間を持て余して困っている姿を見て、楓は少し悲しい気持ちになる。どうして皆はそんなにひとりで居ることが嫌いなんだろう。SNSやグローバリゼーションで世界と繋がり過ぎてしまう時代だからこそ、誰とも繋がっていない時間に価値があるんじゃないか、なんて楓は考える。
 そんな少し斜めな考え方をする楓も、あっという間に20代の半ばを超えてしまった。ふとした瞬間に、ジェットコースターの1つ目の山をガタガタ登っているような感じがする。内臓がグッと握られたような感覚になる。人生はもう始まってしまってジタバタしても仕方がない。腹を括って生きていくしかない。


 ある日曜日の昼過ぎのこと。明け方まで映画を観ていた楓は随分と遅い起床をした。自由奔放に飛び跳ねる寝癖のままリビングに向かって、カーテンをシャッと開けて射し込む日光を浴びる。そして気持ち良さそうに、んーっと背伸びをする。いかにもCMでありそうな寝起きだが、丁寧な暮らしと言うには時間が6時間ほど遅い。まぁ、本人が満足しているからそれで良いのだ。
 一分ほど日差しを浴びたあと、楓は口の中の寝起きの不快感を覚えて歯を磨く。泡立ちが良いカラフルな歯磨き粉を少しだけ絞り出して、口の中でシャカシャカする。オレンジの味がして美味しい。そうだ、美味しいと言えば、お腹が空いた。何か食べたい。楓は歯磨き粉を美味しさで選ぶくらいには食いしん坊なのだ。
 歯を磨きながらキッチンに移動して冷蔵庫を開ける。残念ながら食べ物は何もない。大好きな冬季限定のビールたちが冷蔵庫の段を一つ占拠していて、他の段はすっからかんだ。ここで楓は、作り置きしていた自信作のクリームシチューを前日の夜に食べ切ってしまったことを思い出す。困った。
 楓は一縷の望みを託して冷凍室を開ける。確か、かなり昔に気まぐれで冷凍餃子を買っておいたような気がする。食べた記憶はないから、まだあるはずだ。パックご飯と焼き餃子と手抜きの玉子スープで大逆転優勝ができる。
 しかし現実は残酷で冷凍室に餃子はなかった。不思議だ。食べた記憶も餃子本体もない。もしかして、買った記憶も幻なんだろうか。夢見た大逆転優勝が叶わずそんな馬鹿なことを考えていると、口の中が泡で一杯になったので歯磨きを終えることにした。

 内臓は持ち主に似るもので、家に食べ物が何もないと分かった途端にお腹が鳴り始めた。かなりひねくれている。これはいよいよ困った。お腹は空いているけれど、徒歩5分の最寄りのコンビニに行くことは、とてもとても面倒くさい。どうしたものかと少し考え込んだ楓は、急に寝室へ一目散に走った。夜の呼気が立ち込めている低酸素の寝室に飛び込んで、慌てて通勤用リュックを漁る。そして、某一ヶ月生活チャレンジの番組のように、何かを取り出して掲げた。とったどー、と。
 それは、「山田養蜂場のはちみつダックワース」というお菓子だった。ダックワースが何なのか、何語なのか、その綴りすら知らないけれど、柔らかさと形状的にブッセのような味がするのだろうと予想ができた。どうしてキラキラから程遠い楓が一体どうしてそんなものを持っていたのか。それは、金曜日に職場で隣の席の先輩が2つくれたからだった。
 楓は念願の食料を手にして、少なくともあと数時間は食料調達のために家を出る必要がなくなった喜びを噛みしめる。ありがとう、先輩。あなたにはこれからもたくさん可愛がられる所存であります。
 さて、洋菓子は美味しいけれど、食べると口の中の水分が奪われてしまう。だから、お茶請けならぬ菓子請けの飲み物が必要になる。楓の脳裏には一瞬、冷蔵庫で一大勢力となっている冬季限定ビールが思い浮かぶが、流石にそれは味の相性が悪すぎる。仕方がないから大人しくお茶にしよう、と麦茶目当てでキッチンに戻って冷蔵庫を開けると、ドアポケットになんと奇跡的に牛乳があった。小学生の頃の給食の、白米と牛乳という違法すれすれの食べ合わせを拷問に感じていた楓は基本的に牛乳が好きではないのだけれど、数日前にどうしてもクリームシチューが食べたくなってそのために牛乳を買っていたことを思い出す。
 そして、これまた奇跡的に牛乳の横にボトルコーヒーもあった。これは先週末に職場の先輩が遊びに来たときに持ってきてくれたものだ。
 楓はチョロい性格をしているので、一気に人生が花開いたかのような幸福感を覚えた。やった、労することなく洋菓子とコーヒー牛乳という幸せコンボをキメることができる。これもこれでまた逆転優勝だ。
 マグカップを出してコーヒーと牛乳を適当に注ぐ。作り慣れていないせいで、カップのギリギリまで注いでしまったのもまたご愛嬌だ。
 ここで楓は、あっ、と小さく声を出す。牛乳を注ぎすぎたことではない。なんちゃらワースを寝室に置き忘れてきたことを思い出したからだ。慌ててキッチンを出ようとして、また小さく声を出す。そうだ、先に飲み物を冷蔵庫にしまわなきゃ。いま来た数歩を戻って牛乳とコーヒーを冷蔵庫のドアポケットにしまう。楓の毎日はこんな風に行きあたりばったりに進むのだ。

 寝室からお菓子を取ってくるだけなのに、キッチンに戻って来たときには少し息が上がっていた。急がなくてもいいのに部屋の中を走ったからだ。楓の中ではもう次のプランは決まっていた。なんちゃらワースをコーヒー牛乳と一緒に楽しみながら、Netflixで映画を観たかったのだ。今日は大好きなリーアム・ニーソン主演のFinal Planという映画を見よう、と明け方に寝る前に決めていたのだ。
 リビングに持っていこうとマグカップを持った瞬間に嫌な予感がする。そうだ、牛乳をなみなみと注いでしまったから、いつもの感じで運ぶと絶対に零してしまう。楓は呼吸を整えるためにも大きく深呼吸をして、なんちゃらワースをパジャマのポケットにしまった。そして、マグカップを両手で丁寧に持つ。零さないように慎重にすり足でリビングに向かう。しかし、細心の注意を払っているのにも関わらず、コーヒー牛乳の表面が波打つ。波を鎮めようと立ち止まっても鎮まらない。よく見ると液面と同じ間隔で手も少し波打っていた。そうか、これは自分の脈なんだ、と楓は気付いてひとりでふふっと笑う。

 楽しみな映画があって、そのお供には美味しそうな洋菓子のなんちゃらワースと奇跡的に合成できたコーヒー牛乳。その高揚感で上がった脈拍が今こうしてコーヒー牛乳の表面を波打たせている。だから、楓はひとりで居ることが好きなのだ。ふとしたところに転がっている幸せがどうしようもなく愛おしい。

 

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