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人間は死ぬと『三つの死』を得る――「生物としての死」、「社会的な死」、「自我の死」――

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エドワールト・コリール作、1663年『ヴァニタス-書物と髑髏のある静物』

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作者不詳、17世紀頃『メメント・モリ』

(『ヴァニタス(空虚)』と『メメント・モリ(死を忘れるな)』は、どちらも死をテーマとした絵画の題材、あるいは思想。時代によって視点も変わるが、人は古い時代から死に想いを馳せてきた)

1.はじめに

さて、今回はリハビリがてらに死生観に関する哲学っぽい軽い話を一つ。(この場合の軽さとは、主に文字数の多寡とあまり需要を深く考えないことを指します)

死ぬことと、人が死ぬことを構成する「三つの死」について、です。

いかにも胡散臭そうなテーマですが、もちろんその通りに胡散臭いです。死生観なんて大概胡散臭いもんですね。徳の高いお坊さんなら別かもしれませんが、残念ながら私の徳は下から数えた方がぶっちぎりで早いです。なので胡散臭いまま進めていきます。

三つの死とは、すなわち「生物としての死」、「社会的な死」、「自我の死」の三つを指します。

人が死ぬ、ということの意味を分解してみると、自然とこの三つが見えてくるんじゃないかな、と。死後の世界や救済はひとまず定義しないので、宗教的視点ではなく哲学的視点と言えるはず。
ともあれ、誰であれ「死ぬこと」について一度は考えた経験はあるんじゃないでしょうか。今の御時世、その比率も上がっているとかいないとか。恐怖は未知から生まれます。死について考えてみることは、死を恐れずに済む一つの道かもしれません。

終活というほど大袈裟でもないですが、死についての考えを整理してみるのは生きることにも前向きになれてベネ、という観点で。
どうぞ一席、お付き合い頂ければ。

2.「生物としての死」

まず初めに、私達は一個の生物です。心臓が動き、血が巡り、細胞が代謝しています。この活動が停止することで生物としての我々は死に至ります。言い換えれば、生物として死ぬことで我々は「生物としての命」を失います。

これは「物理的な死」であり、「(人間以外とも)共通の死」とも言えるかもしれません。自我や社会的関係が目に見えず、物理的実体もないのに対して「生物としての死」だけはどこまでも物質的です。

不老不死の法はいくつかの科学的手段によっていつか実現されるかもしれませんが、しかしそれまでの間は不可避の死でもあります。あらゆる生物に共通するこの最も原始的な「死」を、あらゆる生物は恐れ、拒絶しようとします。

ある意味では、子孫を残すことは「生物としての死」への抵抗手段だと言えるかもしれません。一個体が死んだとしても、遺伝子を子孫に残せるのなら広い意味では遺伝子としては死んでいない。本能レベルでの死への対抗手段こそ、繁殖――『遺伝子』を残すことである、と考えることもできます。

3.「社会的な死」

二つ目の死が、「社会的な死」です。人間は社会性生物であると言われており、犬やハチの仲間もまた同様に高度な社会性を持っていますが、やはり人間のそれには及びません。SNSを使いこなし、noteで私見を発表するのは今のところ犬やハチ諸君には荷が重いでしょう。それが常に素晴らしいことかは別として。

知性を発達させ、文明や国家を築いた人間だからこそ生まれる社会的関係からの欠落。それが「社会的な死」です。

この「死」は、「生物としての死」に伴うこともありますが、生物として死ぬよりも早く社会的に死ぬことも可能です。「冤罪で社会的に死んだ」、「SNS炎上して人生終わった」、というような「死」は、まさに社会的な死と呼べるでしょう。

「社会的な死」は人間にとって長らく悩みの種であり、農村の村社会で村八分に遭ったり、インターネットの発達した情報社会で炎上したり。いつの時代も社会的に死にたくない! と人間はもがいてきました。

ついでに言うなら、社会性生物にとってはわりと月並みな悩みだったりもします。群れから疎外される犬、仲間からイジメに遭うカラス、用済みになって放逐されるハチ。社会性生物は、人間でなくとも「社会的な死」を迎える可能性があるわけです。人間ほど悩んでいるかはわかりませんが。

何でそんなにビクビクしてまで社会性生物なんてやらなきゃいけないの? と言えば、それはやはり生存競争にて社会は著しく有利、というか最強! だからです。自然界最強と謳われるライオンでさえ群れで狩りをしますし、犬も群れれば大きな牛を美味しく頂けます。人間なんて国家や文明とかいうチートスキルを身に着けて、地球を丸ごと征服してしまいました。

それだけ強力な『社会』という武器を維持する為に、ちょっとした個体の犠牲はやむなし、というわけです。悲しいことですね。

もっとも、こちらは物理的な死と違って蘇ることもできなくはありません。炎上した芸能人も、ほとぼりが冷めればひょっこり復帰していたり。クラスでは陰キャだった彼だって、大人になればビル・ゲイツ。はぐれ狼だって、別の群れに加われることもあるでしょう。

「社会的な死」を避ける一番の方法は、「社会に大きく影響する」ことです。偉大な王様や歴史的作家、発明家の類がわかりやすいでしょうか。歴史に名を残すと言い換えてもいい。

社会に極めて大きく影響した人物は、生前のみならず死後にも讃えられたり、あるいは自分の築いた国、組織、生んだ書物や発明が何百年後も受け継がれるかもしれません。そうなれば、「生物としては死」んでも、「社会的には死んでいない」と言うこともできるでしょう。犯罪者としてマイナスの影響であっても、生きた証を残したい、という人さえいるほどです。

4.「自我の死」

そして三つ目は「自我の死」! これはまさに、「私自身が死ぬ」ということについてです。生物としての死との違いは、「生物としての死」が肉体の死ならば、「自我の死」は心が死ぬこと、といったところでしょうか。

例えば「あなたの肉体は永久不滅になるけれど、あなたの精神は消え去って、意思のないゾンビになるよ」と言われたら、「そんなの死んだのと同じだ!」と思う人は大勢いるでしょう。これが「自我の死」。心が壊れて廃人になる、というのもまた「自我の死」の一種でしょう。

哲学者が三度の飯より大好きな『自我』ですが、ここではエスだの主観と客観だのは置いておくとして、自我=精神=心=考える私、と定義しておきます。

自分自身が消えてなくなる。怖いですよね。アプリを削除するように、世界から自分という存在が、考えている私自身が拭い去られてしまうとしたら。そんなに恐ろしいことはないかもしれません。

「明日起きたら今日の自分はいなくなっていて、まったくの別人が自分と成り変わっていたらどうしよう」なんて怖い妄想に震えた幼少期の話もネット上では見かけます。自我というのはとても曖昧なので、社会的な繋がり以上に見えづらく、そもそも存在するのか? なんて哲学では議論されていたりします。

そんな「自我の死」を退けるのは、一番簡単で一番難しい。歴史的に見れば、『宗教』が最大の武器でした。『哲学』もまた、使い方次第では「自我の死」と戦えます。『思想』や『感情』、そしてこのnoteも、ある意味では「自我の死」と戦う武器になるかもしれません。

何よりも考え方次第、というのが「自我の死」の本質だからです。

5.「三つの死」への恐怖

死は誰にとっても、どんな動物にとっても恐ろしいものです。しかし人間ほど死を恐れる動物がいるでしょうか。まぁいるかもしれません。ネズミも鬱病になるそうですし、サルもおだてりゃドラッグ・ジャンキーになりますし。

とはいえ私達が恐れる死は、どうもコロッとくたばって墓の下に埋まるだけ、というシンプルな物ではないようです。道中の苦痛が怖い、という人もいるでしょう。孤独死はいやだ、なんてパターンもあるかもしれません。

そんな人間が持つ独自の「死」を考えてみると現れるのが、「三つの死」。「生物としての死」、「社会的な死」、「自我の死」です。いくつかは動物にも起こりえますし、実は全部動物も味わうのかもしれません。けれどそれを言葉にしたり、漠然と想像して怖がれるのは、人間の厄介な特権です。

生物として死ぬだけなら、それほど怖くはないかもしれません。しかし社会的に忘れられ、自我が消えていき、とさらに二つの死が重なるが為に、多くの私達は死を恐れずにはいられないのでしょう。

6.三つの死への対抗策

だからこそ。私達にも、死との戦い方があります。

一つ目の「生物的な死」への対抗策は、健康長寿を目指すこと、SFな不老不死を期待すること、そして子孫を残すこと。三つ目が最もポピュラーなやり方であり、物質的な『遺伝子』を残すことです。それでも死ぬのは怖いでしょうが、何も残せずに死ぬわけではないんだぞ、と思えるかもしれません。

二つ目の「社会的な死」への対抗策は、「社会に大きく影響する」こと。できればマイナスの評価は避けたいでしょうから、「社会に大きく貢献すること」と言ってもいいはず。そして社会に爪痕を残し、広く後世にまで残る「何か」を残すことを、『模倣子(ミーム)』を残す、と言ったりもします。SCPで広まったアレですね。『模倣子』は情報子とも言い、つまりは自分が生んだ情報、痕跡、結果のことです。『模倣子』が受け継がれる限り、社会は自分がいた痕跡を忘れていない、と考えることができます。遺伝子ではなく模倣子を残す、と語った誰かも見かけた記憶があります。

三つ目の「自我の死」への対抗策は、「考え方を見つける」こと。『宗教』で死後の世界に救いを求めたり、『哲学』で世界の形を見定めて迷いを捨てたり、『思想』で国家や自由に殉じたり、『感情』で美味しい物を食べて細かいことは忘れてみたり。色々アリです。そして例えば、『遺伝子』こそが「自分自身」、言い換えれば「自我の本質」なんだと考えることもできます。『模倣子』ならばよりわかりやすいでしょう。自分の著作がベストセラーとなって後世の人々に読み継がれるのなら、「私自身」がその中で生きている、と考える文豪はイメージしやすいと思います。

そして――これらを見返してみると、結局はすべてが「どう考えるか」に紐付いていることがわかると思います。「生物としての死」、「社会的な死」、「自我の死」。けれどそのどれも、認識し、考えるのはあなた自身、私達自身です。三つの死をどう捉え、どう向き合っていくか。それぞれの対抗策とは、その手助けや手がかりに過ぎません。

私自身は、最近は死ぬこと自体はあまり怖くはありません。自分の中で「死んだらどうなるか」ということに、ある意味で都合の良い答えを出しているからでもあります。そして生きている間に是が非でもこうしたい、『模倣子』を残したい、と考えているからでもあると思っています。

逆に言えば、『模倣子』を残せないこと、こうしたいと望んだ形で生きられないことはとても怖いです。「どう考えるか」を決めると、三つの死と戦う武器になる代わりに、それが実現できない時には「社会的な死」や「自我の死」に直面することにもなり得ます。『宗教家』が信仰を失ったり、『アスリート』がスポーツで挫折して自信を失ったり、『美食家』が美味しい物を食べられなくなって絶望したり、ですね。

「三つの死」に対する、万能の解決策は今のところありません。私達は不老不死ではなく、明日炎上するかもしれず、自我なんてものは曖昧です。けれどだからこそ、「自分らしい死への向き合い方」を探し、決めることはできます。どうせ恐れるなら、自分らしく。その一助として死を三つに分解し、それぞれの特徴に想いを馳せてみることが、少しでもあなたのお役に立てば幸いに思います。

ここまで、長らくご精読いただきありがとうございました。

おそらく次回は、何となくポップなテーマで。

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