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神戸までfOULの映画を見に行く

今日は、友人に「いつか書いてくれ」と言われて、ずっとずっと先延ばしにしていたことを書いてみようと思う。いや、書き出してみようと思う。
というのもこのことについて書くことは非常にためらわれるのだ。そのためらいは何から来るものなのか、わからない。どうやって言葉に表せばいいのかわからないのか、言葉にしたくないのか。いや、もっと別の理由があるのか。

以前、ここにもほかの映画を見に行った感想について書いた。京都に住んでいた頃、映画は身近だった。自転車でいくつもの映画館に行くことができる。
といっても月に一本見に行けば言い方で追いかけている監督の作品などを除けばビデオレンタルで済ますことも多かった。赤穂には映画館がかろうじてあるもののラインナップは子ども向けアニメに、吹き替え大作映画、宗教物という保守的な支持層の盤石なラインナップで、結局一度も入場することはなかった。
見たい映画を見に行こうと思えば姫路まで電車に乗るか、岡山まで車で行くか。
いずれにしても「映画」は、奇しくもコロナ禍なのもあってサブスクリプションサービスで見ることが多くなり、更にはフランス語の勉強や研究の忙しさから、滅多に見ない身近ならぬ「身遠」な存在になった。

さて、前置きがどんどん長くなっている。今、映画と私の距離について400文字ほど書いた。

次は音楽について書かねばならない。かつて私と音楽は二つで一つだった。音楽は私であり、私は音楽だった。精神分析ではこう言うのを同一化というのかもしれない。現象学では自他以前の状態というのかもしれない。まぁそんなことはどうでもいいかもしれない。つまりは0距離だった。
とにかく私はバンドで演奏していて、エレキギターを弾いている時、本当にギターに吸い込まれる感覚というかギターを私が飲み込むのではなく、ギターに私が飲み込まれる感覚によく襲われたものだ。ここにはある種の恐ろしさと心地よさが併存してある。恐らく手練れのミュージシャンであれば、一度はこの感覚になることはあっても、すぐにまた、楽器と自分を別々の存在として実感し、演奏・操縦できるようになっているんだと考えている。(知り合いの手練れの方々、どうでしょう?今度聞かせてください。)だから例えば映像でものすごいテンションの高い演奏をしているように見えたプロのミュージシャンのライブを実際見てみると、実は首から上だけがテンション高いゾーンで身体はクールゾーンみたいな人をよく見かけた。青臭さしかなかった私は、それを欺瞞だと感じた。今は別にそんな風に感じないし、むしろプロフェッショナルはそれくらいでないと・・・とすら思う。
そんな私が音楽を、演奏することと距離ができてついにはほとんど演奏すること、聴くこともしなくなってしまった。
自分は部活動を熱心にやっていたことがないので違うかもしれないが、この感情は別に特別などではなく、部活や推し活、何でもいいが何かに打ち込んで、自分がやっていることと自分とが一致するようなほど熱中する期間が人にはあると思う。だから、それがなくなった時のしんどさはきっと共有できると思う。

そういう意味では音楽を自分から取り除いた自分で生きていくのはなかなか大変だったし、とにかく音楽は自分の中で、取り扱い注意なものになっていた。(なぜ取り除いたのかは、もうここでは扱えないし扱うべきではないかもしれないが、とにかく―全摘ではないものの―取り除いた。)

そんなときに、妻から「fOUL」の「映画」があるらしい。と教えてもらった。
その時の私の動揺といえば・・・嬉しいのか、悲しいのか、寂しいのか、怖いのか?とにかく感情を全部混ぜたような感情だった。いや、全部と言っても別に怒りはなかった。

さて、今回は前置きで字数がかなりになって終わってしまった。気が向いたらこの続きも書きたいと思う。

パリ編も今週は更新します。遅れてGOMEN

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