哲学的幸福論と人生論的幸福論
「幸福が、人生の究極目的である」とか「幸福が、社会の究極目的である」と主張すれば、「それは違う。幸福よりも尊いものがあるはずだ」という反論が起こることと思う。しかしそうした反論をする以前に、そもそも幸福とは何であるかということについての理解が一致していなければ、議論が噛み合わないだろう。
幸福の定義を「快楽説」「欲望実現説」「客観的リスト説」の三つに分類することが定着したのは、イギリスの哲学者デレク・パーフィットが著した『理由と人格』(1984)の影響によるものとされている。この分野の日本語で読める入門書としては、森村進の『幸福とは何か』(2018、ちくまプリマー新書)がある。森村進は『理由と人格』の翻訳者でもある。『理由と人格』は恐ろしく分厚い本で、扱っているテーマも「幸福」だけではない。それに対して『幸福とは何か』は、幸福の哲学についてコンパクトにまとめられており、内容も平易で分かりやすい。
ただしこの本は分かりやすいのだが、おもしろくない。少なくとも、人生を豊かにしてくれるような内容の本ではない。なぜこの本がつまらないのかというと、その理由はおそらく「いかに生きるべきか」という問いが捨て去られて顧みられないからである。幸福の概念分析は、単なる知的なパズルになっており、「いかに生きるべきか」という問いから切り離されてしまっているのだ。人生に関わるような問題を扱っているという手応えを感じられない。哲学書でありながら人生に影響を与えるような力を持っていないということを、著者自身も次のように認めている。
これは著者の森村が悪いのではなく、現代の哲学的幸福論という分野がそういうものなのだと言わねばならない。森村によれば、哲学的幸福論(幸福の哲学)とは、「幸福とはそもそも何を意味するか」という概念分析を行うものである。これは「どうすれば幸福になれるか」という生き方の手引を与えようとする人生論的幸福論とは区別されている。問題なのは、この二つが区別されるというだけでなく、ほぼ完全に切り離されてしまっていることだ。現代の哲学的幸福論は、人生に積極的な影響を与えることもなければ、人生経験から影響を受けることもないのである。そのため次のように述べられている。
それは知的なパズルに過ぎず、おそらく何の役にも立たない。あるいは専門家の業績作りのためには多少は役立つのかもしれないが、そんな学問を大学で教える必要があるのかどうか疑問である。人生の目的を探究するのでもなければ、幸福に生きるための手段を与えようとするのでもない単なる概念分析は、たとえ分かりやすくても価値がないであろう。これは人文学の退廃である。
古代ギリシアにおいては、哲学はそのようなものではなかった。古代ギリシアにおいて「幸福とは何であるか」という問いは、「いかに生きるべきか」という問いと密接に結びついていた。言い換えると、哲学的幸福論が、人生論的幸福論と密接に結びついていた。そこでは哲学をすることを通して、より善い生き方をすることが目指されていたのである。
私は、現代の幸福の哲学も「いかに生きるべきか」という問いを引き受けるべきだと思う。だが、そのためにはどうすれば良いのだろうか? 確かなことは、「快楽説」「欲望実現説」「客観的リスト説」というパーフィットの三分類の中で論理的整合性のある理論を作ろうとしても無駄だということだ。それは現代の哲学的幸福論に他ならないからである。人生論的幸福論との繋がりを取り戻すためには、古代ギリシアには存在したが、現代には欠けているものを再発見しなくてはいけないはずだ。私の考えでは、それこそが「心的調和説」という第四の立場なのである。
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