引き出しの奥の論語【エッセイ】
高校生の頃、僕にはひとつの習慣があった。それは「誰よりも」早く登校することだ。誰よりもというのは教師を含めた文字通り「誰よりも」。
クラスの朝礼は8時40分頃からだっただろうか。自転車通学だった僕はその2時間ほど前には正門に到着し、単語帳を開くなり読書をするなりしながら鍵番の教師の到着を待っていた。その教師は英語科の中年の男で、垂れ目に大きい体格はまるで熊のようであり、いつも黒いニットのビーニーを被っていた。彼は「今日も早いね」とのそのそとした口調で言いながら校門の錠を外し、続いて校舎の扉を開ける。僕は彼に「ありがとうございます」と伝え、教室へと向かう。高校生活の3年間で、彼の授業を受けることは結局一度もなかった。
僕の所属していた剣道部に朝練はなく、代わりに放課後はほぼ毎日練習があった。部活のあとはヘトヘトでとても集中して勉強することはできそうにもなく、僕は朝に勉強する習慣を選んだのだ。22時には就寝し、5時半頃に起きて勉強する。これが僕の高校生活だ。
そして早朝の登校にはもう一つの理由があった。僕は毎朝8時から、論語を読んでいた。
論語とは儒教の経典の一つであり、孔子とその周囲の人物の言動や行動を記録した書物である。孔子は記録を嫌っていたため、論語は彼の死後に弟子らが編纂したとされている。
僕と論語との出会いのきっかけは国語科の教師であった。氏の大学受験の年は学生闘争によって東京大学の入試が実施されなかった史上唯一の年であり、氏は結局私立の名門大学に進学して東洋哲学を修めた。そして教師になってからも論語を熱心に研究し、クラス朝礼の前30分に論語の素読をする講座を自主的に行なっていた。素読とは文をそのまま口に出して読みあげることで、僕ら受講生は氏の訓読に続いて一文ずつ反復した。
論語は20篇からなる。それを毎週一篇、繰り返し素読する。素読のあとには簡単な解説と雑談があった。論語は人間味あるエピソードが多くてそれ自体面白いし、氏その人にしても、冷戦下のソ連をシベリア鉄道に乗って横断しヨーロッパまで旅をしたというような本当か嘘かわからないエピソードをよく聞いたものだ。疑っているというよりは、それらは本当の出来事にしてはあまりに現実離れして聞こえた。とにかく、授業にせよ雑談にせよ、氏の話は無知な若者にとって魅力的に響いた。
そんな氏の論語講座には学年問わず毎朝十数名が参加していた。少ない日は数名だっただろうか。日々変わる面々の中で、僕は3年間を通じての唯一無欠席の受講生であった。
氏はよく言っていた。普段の授業にしてもこの論語にしても、高校を卒業してしまえばすぐに忘れてしまうことだろう。けれど、ふとした瞬間に忘れていたそれらを思い出すことがある。それが教養というものだと。
僕は過ぎ去る日々の中でたくさんのことを知り、そしてたくさんのことを忘れた。訪れる様々な出来事から有象無象を持ち帰っては引き出しにしまっている。そして閉じられた引き出しが無数に並んだ戸棚を前にして、果たして僕はどんな人間だろうかと問いかける。そのなかに本当に大事なものは入っているのだろうか?
今僕が思い出すのはこの一節だ。
漢文に難しい点があるとすればひとつは、厄介なことに、日本語でもなんとなく意味がわかってしまうことかもしれない。ちゃんと解釈するためには字ごとに理解していく必要があるだろう。論語全体を通しても頻出の三つの字について辞書的な解釈を付しておく。
さて、僕は考える。今日の僕は誠実に生きていただろうか?信頼に厚かっただろうか?
しかし3つ目は少しややこしい。「わかっていないことを人に伝えてはいないか」?そもそも「わかる」だとか「身につける」だとかって一体なんだろうか?なんだかそんなことを考えていると、自分は何もわかってなどいなくて、身についたものなど何もない気がしてくる。そうして何も言えなくなってしまいそうだ。
僕は当時読んでいた『論語集註』を取り出してきた。松雲堂書店から出版されているもので、元々綺麗な灰色であった表紙は通学鞄の中で擦れてしまって薄汚れている。本の角はすっかり丸くなり、乱雑に折り目なども付いている。学而篇は論語の最初の篇だ。漢字が所狭しと並んだその本を数ページもめくると、探していた一節はすぐに出てきた。端には二文字、自分の字で走り書きがしてある。「謙虚」と。
この一節は、ひとつには謙虚さと勤勉さの精神を説いているのだろう。わからないことをわからないと認め、精進し続ける。知った気になって驕らない。
まがりなりにも表現を仕事にするものにとって、この一節はとくに重要な教訓に思える。この一節のことは忘れてしまっても、その精神は常に刻んでいたいと思う。そしてそのことを確かめるために、この一節が記憶の引き出しにしまわれていることを時々思い出したい。
吾、日に三たび吾が身を省みる。
人の為に謀りて忠ならざるか。
朋友と交わりて信ならざるか。
習わざるを伝うるか。