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52/9482のポーカー【エッセイ】

角道をあける

友人のひとりが将棋に熱中していて、ことあるごとに「将棋は人生だ」という。あるいは「人生の出来事の大半は、将棋の格言が言い表している」ともいう。彼の熱意に影響されて僕も時々将棋を指すようになったが、一緒になってそれなりに取り組んでいた2年前はおろか、気が向いたときに少し触れる程度の今では彼に到底太刀打ちできない。棋力がモノを言う将棋に、アマチュアレベルの番狂せはなかなか起きづらい。

一方で僕は、最近ポーカーにハマっている。これはまた別の友人の影響で、つい一ヶ月半ほど前に始めたばかりだ。まだまだ短い期間ではあるけれど、これまで四半世紀ほど生きてきた中で体験したどのゲームとも異なる面白さを感じている。そこで僕は考える。ポーカーは人生たりうるだろうか?

ポーカーのルール

今回の話をするのに必要な分だけ簡単に、ところどころ省略し用語はなるべく避けながらルール説明をする。知っている人や時間のない人は読み飛ばしてもらっていい。ちなみにノー・リミット・ホールデムという最もメジャーなルールのものです。
ちなみに、当然だけれど、現実のお金を賭けることは法律で禁止されています(ポーカーを始めたと人にいうと3割くらい「それ大丈夫なやつ?」と返ってくるので、念のため)。

それぞれのプレイヤーにトランプ・カードが2枚ずつ配られ、場には5枚が伏せられる。ジョーカーは含まない52枚。プレイ人数は2〜10名程度。加えてディーラーがいる。

各プレイヤーは配られた2枚を確認する。続いて伏せられたうちまず3枚が公開され、順に1枚また1枚と公開される。
最終的に自分から見えている7枚のうち、最も強い5枚の組み合わせで他のプレイヤーと勝負する。つまり、最後までゲームを続けた場合、カードの分配という完全なる運のみで事前に勝敗が決している。一度配られたカードが途中で破棄されたり交換されたりすることはない。

もちろんそれだけではゲームとして成立しない。そこでプレイヤーに与えられる唯一のアクションがある。「場のカードが公開される前後に、そのゲームに参加するか降りるかの選択をする

①所定のプレイヤーは、そのゲームに参加するならば決められた額以上のチップを賭ける。

②各プレイヤーは順番に、そのゲームに参加するならば、前に参加表明した人と同じかそれ以上のチップを賭ける。参加しないならば支払わない。

③一度支払ったチップは場に貯められ、手元に戻ることがない。

④参加するプレイヤー全員が同じ賭け額で同意したところで次のフェーズに移る。すなわち、まだ公開されていないカードがあるならば公開して①に戻り、全て公開済みなら残っているプレイヤーの手の強さを比較して勝敗を決する。

勝利したプレイヤーが場に貯められた全てのチップを獲得する。

この一セットのゲームを、テーブルに人がいる限り続ける。

人生は僕らにとっての全てだから

さて、元も子もない話だけれど、そもそもほとんどの物事は人生に喩えることができる。もしも剣道をやっている人ならば剣道は人生だというし、道に落ちている手袋を拾い集めるのが趣味だという人がいればそれもまた人生だと言うだろう。将棋も、ポーカーも、同じことだ。

じゃあ結局何が書きたいのかというと、僕が気になっているのは、では物事を人生に喩えるとはどう言うことだろうか、そして僕がポーカーに抱いている新鮮さの正体は何なのか、ということだ。

人生に喩えることはつまり、物事を抽象化することに他ならないだろう。喩えるとはすなわち、物事からある側面を切り取って別の物事と関連付けるレトリック。どんな物事も一部分を抽出すれば、当然人生(=全体集合)の中に含まれる。だからなんだって人生に喩えることができるのだ。

では一体、ポーカーは人生のどのような側面を映し出し、故に新鮮で魅力的に感じられるのだろうか?

この世界におとされて

たかだか数十日のプレイヤー人生ではあるけれど、ポーカーが他のゲームと比べて際立っていることに一つ気がついた。それはプレイヤーに与えられたアクションが極端に少ないということだ。そしてその分、その限られたアクションに含まれる意味合いがとても大きい。

ルール説明にある通り、「実のところ、真の勝敗は全て運により事前に決まっている」。カードの分配が終わった時点で、どのプレイヤーの手がどのプレイヤーの手よりも強いか、全ては決まっている。

プレイヤーの唯一のアクションとは「賭けること」であり、言い換えれば「ゲームに参加すること」である。「このゲームで唯一取ることのできるアクションは、ゲームに参加するか否かを選択すること」なのだ。

実際には、カードが公開されていくので、自分の持つ情報は2枚、5枚、6枚、7枚と増えていく。場に公開されていくカードは全プレイヤー共通だから、他プレイヤーの手の情報も3枚、4枚、5枚と増えていく。その情報を頼りにゲームに参加するか降りるかの選択をするのが駆け引きなのだ。

賭ける(=ゲームに参加する)という唯一つのアクションから、その人は「手持ちの札は強い」「手持ちの札は強いと思っている」「手持ちの札は強いと思わせたい」……などの心境と状況が推測できる。だから時には、たとえ自分が強い手でも、相手の方が強そうだからとゲームを降りなければいけない。引き際も大事なのだ。(そして、その引き際の感情を利用するのがいわゆるブラフだ)

変える事のできない手持ちがある。また、変えることのできない環境がある。環境は皆同じだが、それを持ち前の札と組み合わせてうまく利用できる人もいれば、そうでない人もいる

このように書くと、いかにも人生的だ。そして少し、救いがない気もする。

けれど、ポーカーには諦めがある。そして諦めが救いになっている、とも言える。このゲームがダメなら、また別のゲームでトライすればいい。運が巡ってきて、うまく噛み合ったときに勝負する。もしくは、自分には運が巡ってきたと思うこと、そう周りに思わせることが大事かもしれない。ポーカーでは、「参加したゲームで勝つこと」が必要なのだ。そのタイミングの思考と試行によって勝利を掴み取ることができる。

与えられた変える事のできない世界の中で、自分なりの最善を尽くしていく」のがポーカー的な人生観、とも言えるだろうか。

ポーカーと将棋の違い

さて、ポーカーと将棋を比較することは、ビートルズと坂本九を比較することと同じくらいに野暮なことに違いない。けれどもしシステム面で決定的な違いを一つ挙げるならば、それは情報の非対称性だ。

将棋は情報が対称なゲームだ。互いに見えている盤面は全くもって同じであり、棋力があれば互いにこれから先の数手を同じように読むこともできる。一方でポーカーはそれぞれのプレイヤーで持ち得ている情報が違う。相互に見えない2枚が、まさしく切り札となっている。

将棋もポーカーも人生に喩えられるとして、ではその喩えている人生とはそもそもどんな形をしているか?ここに全く異なる二つの人生の捉え方が現れる。将棋の人生は客観的で、ポーカーの人生は主観的だ。

将棋を指すとき、あなたは盤面に動かされ支配されている客体であるのと同時に、盤面を動かし支配する主体でもある。相手(=世界)はあなたの読み通りに動くかもしれないし、意外な変化をするかもしれない。全ての読みを通し切ることは、蝶の羽ばたきがもたらす結果を知ることのように、人知を超えた営みだ。けれど世界の流れには微かな繋がりがあり、そこに究極的な諦めはない。主体と客体の境界は曖昧で、世界を俯瞰し客観視する超越性がそこには存在しうる。

一方でポーカーには変えられない運命が備わっている。プレイヤーはその運命の中で互いの最善を選択する主体としてゲームに参加し、あるいは降りる。ブラックホールからは光すら脱出できないように、全てを知ることはできない。いくら確率を計算しようと、ショー・ダウンされるまで本当に全てを知ることはできない。どこまでいっても思う/思わせることまでしかできず、これは極めて主体的な人間的で主体的な営みなのだ。

僕がポーカーに感じている新鮮さはおそらく、諦めが許され、そしてその諦めさえもゲーム性に取り込んでいるところだろう。主体を認めてくれる安心がそこにはあり、気楽に遊ぶことができる。

思えば僕は、そしておそらく多くの日本人は、将棋的人生感が強い。すなわち何をやるにも到達することのできない無限を見据えてしまうところがあるのではないだろうか。それはもちろん思想的な強みでもあるけれど、やっぱりちょっと疲れてしまうこともあるだろう。

ポーカーをプレイすることは、その極めて簡潔なルールによって絶対的な諦めを受け入れることだ。それは僕にとって、あるいは僕らにとって、普段切り取らない非現実的で異界的な人生観への逃避行の手段なのかもしれない。

もちろんポーカーに本気で取り組んだりプロになったりすると話は別だろうけれど、52日めの僕にとってはこれが一つの結論だ。

最後に:伝不習乎?

今回の文章は個人的に反省もちょっと多い。初心者だからこそ抱いている新鮮さを書いてみようと思ったのがきっかけなのだが、それはずっと「間違ったことや見当違いなことを書いていやしないか」という疑心暗鬼に苛まれながら書いていた。間違ったことがないか、飛躍や誤謬はないか、再三確認しているつもりではあるけれど、やっぱり自分の知識や論理の力、それを伝える文章力ははまだまだだなあと痛感させられた。何か間違いや分かりづらいところがあればコメントなどで教えてください。何卒。

こういうときは権威の力を借りておくのが良い。僕がこの取り留めもない文章を書きながら思い出していたのは、内田樹の『日本辺境論』だ。新潮社新書から出版されている。この機に少し読み返してみると、「機の思想」「なぜ武道が日本で選択的に発達したか」など、やっぱり大学生のときに読んだこの文化論に影響を受けて思考しているなあと思わされた。

本文の最後の方に唐突に日本人の性質に触れたが、流石に脱線しすぎるので「そういうもんだろ、そういうもんだよね?」と言わんばかりにかなり雑に放り込んでしまったと、こちらも反省している。とはいえその辺も内田をはじめとする先達の日本文化論に論拠を持っているつもりだ。初めて眼鏡をかけたときのような、ハッとした閃きを得られる良書です。ぜひ読んでください。

そういった知的でエキサイティングな本を読むと尚更、自分の書く「文化論もどき」がある種の子供の真似事のようで恥ずかしく思えてくる……重ね重ねご容赦いただき、まあでも個人的には悪くない結論をつけられて考えていて楽しかったので、今後も一つのエンタメと割り切って楽しんでいただければと思います。note投稿もまだはじめて数十日だからね、まだまだ主観で楽しんでいきます。


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