コールタールの空の上

コールタールの空の上

カツン、カツン、コロコロコロコロ……。
カツン、カツン、コロコロコロコロ……。
カツン、カツン、コロコロコロコロ……。

眠りから引きずり出された聴覚が、独り歩きをし始める。
そうすると、今度はそれに引きずられる形で、全く別の感覚までもがそれぞれに覚めてゆくのだ。
暗闇で蛍光に浮かび上がる時計を見れば未だ深夜で、寝入った直後に起こされたのだと分かる。秒針が振れ奏でる、カチカチという微かなアナログ音さえ、今はひどく耳に障る。
頭をぐりぐりと枕に押し付けてみたり、布団を心地よく掛け直してみたり、シーツの小さな皺を頬で撫でてみたり。それは、再び眠り直すためのプロセス。意識的な。
けれども効果は真逆に働き、自分でも無意識のうちに余計な覚醒を得る。
そしていつも後悔する。微動だにせず、夢の胎内へ溶け切ってしまえば良かったのに。ありとあらゆる雑音が普段よりも忌々しく思えるのは、鼓膜が振るえて仕方ないのは、きっと夜という時間の所為。

……眠れなく、なっちまった……。

どうしようもなく苛ついて、ベッドサイドの煙草に手を伸ばす。
ライターの火。酸欠の赤。紙が焦げる。匂い立つ。昇る霞。残るはボロボロに零れる灰と、荒んだ肺。
自分を容赦なく叩き起こした元凶である、あの謎の物音は、一体、何だったのだろう。一度聞こえ、目を覚ましたが最後、それを同じ夜中に再び聞くことは出来ない。
ほんの少し前までは、忌々しいその音源を暴いてやろうと耳を澄ませる気力もあったのだが。いつしか、すっかり慣れっこになってしまって。
今ではもう、無駄な努力を諦めている。
いくら懸命に足掻いたところで、眠れないものは眠れないのだ。

自分の心臓の音を聞くには、身体の左側をうつ伏せて横向きに寝るのが一番いい。
そうすると、普段は気にも留めないような小さな脈動や血液の流れが、大きな心拍とともに奥の奥から響いてくる。まさにどくどくと規則正しく感じられるそれに、薄皮と少しばかりの肉をこそげ取った先に満ち溢れる液体のことを思う。
自分を動かすための栄養と酸素を運ぶその流動物は、さながら自身の生命そのものを溶かし込んだスープのようで。それならばさぞドロドロとした、濃厚なモノであるだろう。
色は違えど、コールタールのような禍々しい粘着質。そしてその中にぽっかりと浮かぶ、ひどく痩せ細った精神の健全性。
生は限り有るモノなのだから、今の瞬間を精一杯生きなければならない……などという輝かしいモットー。
サブリミナル効果を起こさせるほどに吹き込まれているはずのこのモットーの傍ら、自身の生の終わりは自らが決めたいと願う薄汚れた死への憧憬が佇んでいる。……そんな、驚くべき矛盾に気付いてしまったのは、いつだったか。記憶に問う、そんな試みで思い出せるわけもなく。
死ぬことが、怖いことだとは思えない。自分という存在に終末の印を刻まれる……そのこと自体には、何の恐れも抱きはしない。
怖いのはただ、そのために味わわねばならないだろう苦しみ。痛み。そして風化し忘れられる、誰かの記憶としての自身。——死ぬのが怖いというのはきっと、死に付随する様々な負の感覚を甘受するのが怖いだけだ。

純粋な死は、そんなとっ散らかった物事を踏み越えたところにある。そこに痛みは無い。苦しみは無い。哀しみもまた、無い。例え自分が、世界に爪痕一つすら残せず消えたとしても。
体内で流れゆく赤に、想いを馳せる。
俺の赤は、俺が大事に抱え込んでいるこの赤は、もし今この瞬間に俺が粉々になって砕け散っても、誰かの心に小さくて真っ赤な染みを一つ二つ残すぐらいは出来るだろうか?
そこまでじっと考えて、眠れぬが故の馬鹿げた思考を途切れさせた。動かすことを止めた頭の奥は、瞬く間にすぅっと冷える。
何となく、居た堪れなくなる気持ちを紛らわすように、またもベッドサイドの煙草へと手を伸ばした。

死はいつだって俺の間近——背後や真横や斜め下——に蹲っている。
決して、俺を誘うことなどしないけれど。
決して、俺と目を合わせることなどしないけれど。
生きている自分が死を酷く身近に感じるというのは、果たして不自然なことだろうか?

自分を殺すことの出来る存在なんて、腐るほど居る。
自分を殺すことの出来る凶器なんて、腐るほど在る。
ベッドの上。窓の外。キッチンの壁。本棚の横。バスルームの床。机の下。玄関の前。
庭。横断歩道。ガードレール。石塀。歩道橋。自転車。バス。車。トラック。飛行機。
近所のコンビニエンスストア。駐車場のコンクリート。駅構内のゴミ箱。学校の噴水。
動物園の檻。水族館の水槽。植物園の温室。遊園地のアトラクション。家のリビング。
誰かが狙えば、何かで狙えば、俺の命などすぐにでも。
それでも俺が、そうならないのは、それでも俺が、そうされないのは、それでも俺が。

炎に吸い上げられて長く伸びた煙草の灰が、幾つかの欠片へと解れて指の間から転がり落ちた。最早熱さなど感じない。瞬きのことだ。すぐに、過ぎ去る。
けれども、その欠片の一部はまだ焦がすような灼熱とともに在って、俺の上腕、所々を仄かに腫らせた。
欠片が重力に敗北することにより、再び生まれた極小の灯火。あたかもそれに呼応するかのように、カーテンの隙間から早朝の光が射し込んでくる。昨日から続く、分厚い黒雲を潜り抜けた朝焼けの光。
明るい。
赤い。
……もう、そんな時間なのか。
昨日と今日が、カチリと音を立てて繋がる感覚。それは、血のような赤に彩られて。
何かに導かれている……そんな錯覚を自覚するほどのスムーズな無意識の中、俺はその眩い光を受け入れるためにベッドから身を起こした。
いつもならば、そんな気は全く起こらないというのに。やはり、何かに導かれているのだろうか?
今の場合。俺を導いているのは確実に、自らが銜えた煙草の先端と同じ、そうであって、更に雄大で遥かな。

朝焼けの、赤が燃える。

分厚い黒雲が取り零した鋭いその光は、地上の全てを澱みなく、ただ真っ直ぐに照らし出す。視界に入るあらゆるモノが火の色に染まる情景に、まだ見ぬ最後の審判を見た。
そんな、気がした。
体内の、赤が燃える。空は、赤く染まる。
吐息に曇りかけたガラス越し、黒雲の上の赤を想う。
いつかは其処に飛び込んで、溶け込むことが出来るだろうか。内側の赤と外側の赤は、其処で混ざり合って交じり合って、そうして。

窓越しの朝焼けに、両の瞼を閉じる。
裏まで透き通る赤にほんの少しだけ笑んで、夜の眠りを諦めた。


コールタールの空の上 終
再掲元:個人誌「色葉言葉(いろはことのは)」2003/11/06

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