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佐奈田とジェームス(ジェームスの視点)

どうも、家主のジェームスです。
寄生住人佐奈田とは小学校からの付き合いなので、かれこれ20年以上の付き合いになります。

佐奈田と過ごした20余年、それはまさに“寄生”という言葉そのものでした。
私たち家族は今、佐奈田に寄生されています。大抵の人は私たち家族と寄生住人である佐奈田の暮らしを奇異なものとして捉えていただけるのですが、中にはどうしたわけか「幼なじみ同士が大人になっても仲良く暮らしてる!」「ドラマのフ○ハウスみたい!」と好意的に捉える方が少なからずいらっしゃっいます。

そう言った方たちを意識するならば、ブログのタイトルは“シェア”だったり“多様”などといった言葉をちらしたキャッチーなタイトルにするべきなのでしょう。しかし私がはっきり言いたいのは、我々の生活はそんな洒落て乙なものでは決してないということです。

このブログのタイトル“寄生住”は、言わずもがな、岩明均が1990年代初頭から中頃にかけて月刊アフタヌーンに連載していた漫画“寄生獣”に由来します。ある日、高校生 泉新一の右手に謎の生物が寄生し、宿主である新一と寄生獣のミギーがサバイバルしていく、と強引にあらすじをまとめるとそれまでですが、まぁ途中母親は死ぬわ自分に好意を寄せてくれる子は自分のせいで死ぬわ自分自身は常に命の危険にさらされつづけているわ自分が好きな子も命狙われるわ主人公の新一が散々な目にあう漫画です。寄生生物と人間、決して相容れない両者が一つの身体を共有していかなければならないからこそ共存していかなければならない、この漫画の土臭さや生温かさこそが我々の生活に当てはまるもので、“あい○り”や“テラス○ウス”みたいなものでは決してありません。

私が佐奈田に寄生されはじめたのは昨日今日に始まったことではありません。私は高校生の頃、駅が近かったので母が経営するスナックの二階で生活をしていました。もちろん経済的に自立はしていませんでしたが高校生の時から一人暮らしをしていました。一人暮らしの部屋は自然と高校生のたまり場になりました。そのたまり場の中の1人が佐奈田でした。

その後しばらくして私はスナックの二階から実家に戻り、たまり場もなくなるのですが、佐奈田は場所を変え私の実家に来続けました。私が自室でテレビを見ていると窓から入ってくる佐奈田、私が家に帰ると私の父とすでに夕食を共にしている佐奈田、私が就寝するときはいなかったはずなのになぜか朝起きると隣りで寝ている佐奈田…。

私が佐奈田に“寄生されている”というのが少しはお分りいただけたでしょうか。 佐奈田の特徴として“いつでも来る”という習性があります。佐奈田自身が面白いとき、楽しいとき、悲しいとき、寂しいとき、元気がないとき、喜怒哀楽すべて来ます。「いつでもおいで」なんて社交辞令は必要ありません。そんなものあろうがなかろうがいつでも来ます。私の感情や都合は佐奈田に微塵も影響しません。こちらが風邪をひいていようか寝ていようが御構い無しです。

この私たちの生活が洒落た乙なものでは決してないというのがお分りいただけたでしょうか。 佐奈田を寄生住にさせてしまったのはきっと私です。私は佐奈田が友人であるがゆえにあらゆることを受け入れてきました。以前、ある人に「友だちは自分のために本気で怒ってくれる人、それが友だちだ」ということを言われました。なるほど、とも思うのですが、ふと思いました。「友だちに本気で怒らなあかん状況ってどんな状況や」と。さすがに人の道に反することをすると怒ると思うのですが、佐奈田も私もそこまで反する事はこれまでしてきていませんし、もうお互いええ歳なのでこれからも怒ることはないと思います。むしろ、私は「どんな状況になろうと友だちは受け入れたい、それが友だちだ」という思いが昔から強いのです。その受け入れたいという思いが佐奈田を寄生住人にさせてしまったのだと思います。

ま、別にいいんですけどね。