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【短編小説】ドライフラワー⑨(第二章)

***
「お母さま、ごめんなさい」
ベッドの横に置かれた椅子に座って両手で顔を覆っている母に私は声を掛けた。

私の言葉にはいくつかの意味が込められていたが、母はそのどれにも答えなかった。
ただ小刻みに身体を揺らして現実から我が身を遠ざけようとしているようだった。

念入りに消毒されたであろう病室のリネンは予定調和の匂いを放ち、私を落ち着かなくさせる。
カーテンのみで仕切られた隣のベッドから唸るような声が絶え間なく私の耳を犯した。
六人部屋の一番奥のベッドであったおかげでベッドの上で上半身を起こすだけで窓外の景色が臨めたが、等間隔に植えられた樹木と、噴水を止められて、ただの水溜まりに等しい人口の池では私の心の慰めとはならなかった。

桟にはコップに生けられた一輪の花が、本来持っていた鮮やかな色とはまるで違う、くすんだ黄色の花びらを力無くその身に連ねている。
窓ガラスに反射する母の姿は、その花と同じように萎れて見えた。

三日前、私の婚約は破談した。
……君と一緒に生きる人は他にいると思う……

私の病がもう完治する見込みがない段階まで進行していることを知ると、彼はまるで理解することの出来ない不可思議な言葉を残して私の元を去った。
しかし私は彼のことを責める気にはなれなかった。
初めから幸せになるような資格などなかった私が、ただ彼のことを騙していただけなのだ。
先に裏切っていたのは私なのだと自分に言い聞かせた。

「この街ではなくてどこか綺麗な所で暮らしたいわ」
寂しい景色を眺めながら私は言う。
母はまた私の言葉には答えなかった。

二十二歳まで手塩に掛けて育てた娘の婚約が破談になった時の気持ちを娘の私がうかがい知ることは出来ない。
人生が一転すると思われた幸福な数日間を過ごした後に、突如として人生のどん底に突き落とされる気持ちも私にはわからない。
そんなことを考えながら、一体どちらが病人なのかわからないほどに憔悴しきった母の様子に私は憐憫さえも覚えた。

気が付くと窓の外にはチラチラと雪が舞っていた。今年最初で最後の雪だった。

◆◆◆
「彼は嫁を貰うことが会社を継ぐ条件だったみたいなの。私のように子供を産むことの出来ない女と一緒になるなんて考えられなかったのでしょうね」
彼は作業机の上に頬杖をついたまま黙って聞いていた。
着古したカーキ色のセーターは袖が綻びている。
「気分の悪い話だったかしら。もう過ぎたことよ……ほんのわずかな時間であってもこうしてあなたと過ごすことが出来て、私幸せなのよ」

胸の中を開いて見せるような飾り気のない言葉で私は彼に思いを伝えた。
彼は私の言葉に穏やかな微笑で答えた。
私はそっと彼の唇に指先で触れる。
彼は自身の口を封じていた呪縛がようやく解けたとでもいうように小さな声で囁いた。

「……あの曲を聞かせて……」
言い終わると彼は作業机に置かれたドールを赤いベルベットで丁寧に磨き始めた。

私は隣室に移動し、姿勢を正してピアノと向き合う。

第一音が響く…… 続く第二音……
やがて私と彼の前に美しい川が流れる。

「私はあなたよりも少しだけ先にこの川の向こうへ行く。でも不思議と今は恐くないの。あなたと一緒に過ごして永遠の存在を感じるようになったから」

先日彼が修理を終えたドールが棚の上からこちらを見つめていた。
深い緑色の瞳が川を流れる水を想起させた。

モルダウ川は彼我をより深い所へと誘う……

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