Calling

噂に聞いていたとおり、大通りから少し外れた住宅街の片隅に、その電話ボックスはあった。

そこはまるでぽっかりと穴が開いているような、街の死角のような空間になっていて、私もあらかじめ場所を聞いていなければ、そこに電話ボックスがあることに気がつかなかっただろう。私は通りの反対側からあたりを見回して、人がいないことを確かめる。悪いことをしているわけではないはずだけど、なんとなく誰かに見られたくはなかったのだ。さいわいにも住宅街のはずれだからなのか夕焼け色に染まる通りに人の姿はまったくなく、夕方を知らせるチャイムがどこか遠くから聞こえてくる。

私は足早に通りを渡って電話ボックスの前に辿り着くと、おそるおそる扉を開けて中に足を踏み入れる。

目の前にあるのは、緑色をした電話機だ。スマホの通話アイコンでなら見たことはあるけれど、考えてみればこの形をした電話機を実際に触るのは初めてだった。皆で使う電話機って、なんだか不思議な感じがする。

私は戸惑いながら、受話器を持ち上げた。大人の人向けに設計されているのだろう、それは思った以上に大きく、重かった。私の耳に当てると、しゃべる部分はずいぶんと遠い位置にある。喋った時にちゃんと向こうに私の声は届くだろうか。少し不安になりながら、私は数字が書かれたボタンを順番に押す。電話番号を押すというのも初めての経験だった。私が渡されていたスマホにはあらかじめいくつかの電話番号が設定されていたし、新しく番号を登録するときも通信で済むから、わざわざ番号を入力したりはしない。私はボタンを押し間違えないように、慎重にひとつひとつ確かめながら数字を並べていった。

「もしもし?」

言葉を喉から絞り出しながら、私は受話器に向かって話しはじめる。話し出すまでは不安でいっぱいだったけれど、いざ話しはじめてしまえば言いたいこと、伝えたいことはたくさんあった。
ようやく始まった授業のこと、新しく出来た友達のこと、初めて入った部活のこと。進学してからの日々は初めてのことばっかりで、毎日がめまぐるしく過ぎていく。覚えなければいけないこと、学ばなければならないことに押し流されそうになりながら、必死に手足を動かすことに、もしかしたらちょっとだけ疲れちゃったのかもしれない。いつの間にか心の奥に溜まっていたどろどろした何かも一緒に押し流すように、私は夢中で喋り続けていた。

気がつけば周囲はすっかり暗くなっていて、いつの間にか点灯していたLEDの街灯が、青白い光を地面に投げかけていた。等間隔で通りを照らすその光で、住宅街の全体が青く染め上げられている。

青い光に照らされて、私の気持ちもクールダウンしたのかもしれない。受話器を持つ手元も暗くてよく見えなくなっていて、名残惜しい気持ちもありつつ、私はそろそろ切り上げ時だと感じていた。頭の中に溢れるほどにあったはずの話したいことは、受話器の向こうへとすっかり溶けていってしまったかのようだった。

「ごめん、ずっと私が話しちゃってたね。でも、楽しかったよ。ありがとう」

そう告げる私の言葉に、受話器の向こうから返ってくる言葉はない。

それは、そうだ。

この電話機は、どこにも繋がっていないのだから。


古くなったためにもうすぐ撤去される予定の、三丁目の角にある電話ボックスから電話をかければ、話したい人と話すことができる。

――そんな噂を聞いたのは、誰からだっただろうか。最初は聞き流していたその噂を試してみようと思ったのは、抜き打ちテストでひどく悪い点を取ってしまった日の事だった。テストを受けた当日は特に朝からお腹が痛かったということもあったけど、それをお父さんにうまく告げることも出来ずに家を出て、学校でもずっとお腹をさすりながら一日を過ごしていた。それでも普段からもっときちんと勉強していれば点は取れたはずなのは私も分かっていたから、一度家に帰ってからもお父さんの帰りを待つのが嫌で、再び靴を履いて家を出て、あてもなく歩きはじめて気がついたら三丁目のあたりに来ていたのだった。


受話器を置いて、扉を押し開け、すっかり暗くなってしまった電話ボックスを出る。数歩だけ歩いてから顔を上げると、数メートル先にお父さんが立っていた。たぶんスマホのGPSを頼りにここまで来たのだろう。心配そうに私を見つめてなにか声をかけようとしているみたいなのだけど、どうにも言葉が出てこないようで、鯉みたいに口をぱくぱくさせていた。その様子に私は思わず笑ってしまう。そんな私を見て気が抜けたのか、ようやくお父さんは口から言葉を吐き出した。

「心配したんだぞ。帰っても家にいないから」
「そうだよね、ごめんなさい」

私は素直に頭を下げてから、ちらりとスマホの表示に目をやる。時刻は夜の九時を回っていた。そんなに時間が経っていた気が全然していなかったから、さすがにちょっとびっくりする。私が隣まで来たところで、お父さんはくるりと向きを変えて、「ほら、帰るぞ」と言いながら家の方へと向かって歩き始めた。私も並んで歩き始める。

「それにしてもこんなところで、いったい何をしていたんだ?」
「……話すと、長くなるよ?」
「構わないさ、歩きながらでよければ聞くよ。ゆっくり歩いていこう」

私たちは青い街をゆっくりと歩きながら家路を辿る。話したい人と話すことができる、あの噂は本当だったな、そう思いながら私はそっと口を開いた。


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