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残刀、露と消えて(急)

<(破)より>

 父の正式な跡継ぎ、八代目山田浅右衛門を名乗ったのは兄であったが、自分も折りに触れて引退した父から兄の代わりとして刑の執行を命ぜられていた。特に扱いが難しい罪人について自分にお鉢が回ってくることが多いように思えた。それは自分の刀の腕を父が正当に評価してくれているということだと思ったので、素直に嬉しかった。ただ、自分が代わって刑の執行を行っている時の兄は、いかにも機嫌が悪そうではあった。

 ただ一度、刑の執行に手間取ったことがある。時代が明治になってからのことだが、高橋おでんという女囚の執行の際には、「市太郎様、市太郎様」とおそらくは愛する者の名前を泣き叫びながら暴れ、細身の女だというのにその土壇場の力は凄まじかった。大の男が二人がかりで押さえつけているというのに刀を振り下ろした瞬間に大きく動いて狙いがずれ、首の骨に刀が当たってしまったために一太刀で首を落とすことが出来なかった。ゴボゴボと血の泡を吹く女の首に二撃目の太刀を落とした所で、こちらの様子を見ていた兄が妙に嬉しそうな顔をしていたのを良く覚えている。
 
 時代が明治に下ると首斬り役人としての山田浅右衛門家の役目はほぼ失われていた。まず試し斬りが差し止められ、次いで人胆の取り扱いも出来なくなり明治十三年(1880年)には死刑は絞首刑となることが決定されてしまった。
 その前から兄は放蕩を繰り返すようになっており、新宿の女郎を勝手に身請けするなどの目に余る行状から半ば追い出されるようにして家を出ていた。

 とある女郎屋の主から試し斬りを行ってもらえないかと話があったのは、明治十四年(1881年)の暮れのことであった。すでに試し斬りは御法度となっていたが、収入の道がほとんど絶たれた状態の山田浅右衛門家にとって報酬として提示された額は断るには悩ましいものであった。兄に代わり家を支えていた自分の判断で、刑場を管理する役人に幾許いくばくかの金を握らせて夜半にひっそりと試し斬りを行った。

 まさか一年も経ってから、そのことを罪に問われるとは思いもしなかった。

 突然に屋敷に踏み込んできた役人によって身柄を拘束され、あれよという間に刑が下った。発端はある女郎からの投げ文であったという。取り調べの役人がふと漏らした名前は、兄が身請けした女郎の名だった。
 まさか。疑いたくもなかったが、しかし懇意の役人から密かに告げられたところによると、兄は既にその女郎と共に暮らしていた長屋で皮肉にも「労咳」により亡くなっていたという。ならばこれは復讐なのか。ことある度にこちらに向けられていた兄の視線を思い出す。人を妬むことが出来るほどの感情を持ち合わせていることに、むしろ敬意を持っていたのだが、どうやら自分の思いは最期まで兄には伝わっていなかったらしい。

***

「…右衛門。浅右衛門。聞いているのか」

 役人の咎める声が聞こえてくる。ああ、どうやら少しぼんやりしていたらしい。

「何か言い残すことはないか」

 その問いかけに色々と思いを巡らせてはみるものの、この土壇場に及んですら何も浮かんでは来なかった。

「特にございません」

 淡々と問いかけに答えながら、むしろ気になるのは傍らに立つ若い役人の手際であった。首を押さえつけられているので良くは見えないが、可哀想に、足がぶるぶると震えているではないか。ちらちらと舞い降り始めた雪の所為せいだけではあるまい。
 こちらの側でなければおれが直接手ほどきしてやれるのだがな。なにしろ切られるのはこちらも初めてな

 そこで衝撃と共に意識はぷつりと闇へと消えた。

***

 公式には、本邦の最後の斬首刑は明治十四年(1881年)七月二七日、岩尾竹次郎、川口国蔵の両名に行われたものが最後だと言われている。『山田浅右衛門』は正式に継承されたのは八代目の「山田浅右衛門吉豊」までであるため、八代目の実弟である吉亮よしふさは裏八代、もしくは閨八代とも呼ばれている。しかしその腕は八代目を凌ぐともされ、大久保利通暗殺犯の島田一郎などの処刑も行っている。

 明治十五年(1882年)一月一日に正式に旧刑法が施行されて斬首刑は廃止となっており、それにより山田浅右衛門の名も、その名を最後に名乗った一人の男の生涯も、ただ時代の露となって消えていったのだった。

(完)


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