月が満ちる夜のこと


「今夜お月見をしようよ」という彼女からの突然の誘いが来たのは、最後の有休を使って荷造りをしているときだった。
部屋の雑巾がけをしている手を止めて、返事を打つ。

「月見って、どこでさ」
「展望台」
「ああ、あそこの?」
「そう、そこ。あ、やっぱり引っ越し準備で忙しいかな……」
「いや、荷造りも済んだから、今夜はもうやることもないし、構わないよ」
「じゃあ会社が終わったら、展望台の階段の下で待ち合わせね」
「了解」

代名詞でやりとりが完結するくらいに彼女との会話は気の置けないものになっていたけれど、たぶん彼女と会うのもこれが最後になる。

明日には僕の部屋に業者が荷物を取りに来て、僕はこの街を去ることになる。この街で過ごす夜も、今日が最後となるはずだ。
新卒で入社した会社を辞めることを決めたのは、暑さが本気を出す前の時期だった。気がつけば季節は僕の知らぬ間に次の走者にバトンタッチをしていて、今夜は中秋の名月、十五夜だ。

掃除をあらかた終わらせると、僕はアパートを出て駅へと向かう。
すっかり日が落ちるのも早くなった。
暮れゆく空を見上げると、気の早い月が視線の先で輝きを放ち始めていた。

途中のコンビニでサンドイッチを買って、もそもそと齧りながら駅前の商店街をのんびりと通り抜けていく。駅の向こう側は少し坂になっており、山とも丘ともつかない微妙な高さの高台があって、そこに彼女の言う展望台はあった。

待ち合わせ場所に現れた彼女は驚いたことに浴衣姿だった。

「どうしたの、それ」
「今年はどこもお祭りが中止で、着られなかったから悔しくて」
「にしたって、寒くない?」
「うん、ここに来るまでにもうけっこう後悔してる」
「じゃ、いったん帰る?」

彼女の家はここから歩いてすぐだ。
会社の指定で新入社員は会社から3駅の範囲で部屋を探すことになっていて、たまたま彼女と僕が選んだのがこの駅だった。
ちょうど駅を挟んで反対側に僕たちのそれぞれのアパートは位置していて、展望台のある側に彼女のアパートがある。

「ううん、確か展望台の横に自販機があったはずだから、そこで温かい飲み物でも買うことにする」

そう言って、彼女は階段を上り始めた。
先を行く彼女の足元からカラコロと下駄の音がする。

「同期もみんないなくなって、ついにこれで私一人かぁ」
「……なんか、ごめん」
「あ、ごめん、気にしないで。同期のみんなでここを上ったのが、ついこの間のような気がしたから」

同期の仲は悪くなかったけれど、色んな事情が重なって、いつの間にか今でも会社に残っているのは僕たち二人だけだった。
そして僕も会社を去る。

展望台に到着すると、とりあえずちかちかと光っている自販機で温かいコーヒーを手に入れて、展望台の一番上まで。

「ああ、やっぱりここから見る月は奇麗だね」

『月がきれいですね』とは夏目漱石の愛の言葉だっただろうか。
何かが少しだけ違っていれば、僕と彼女ももう少し違う関係でここに立っていたのかもしれない。そんなことを思いながら、月に照らされた彼女の横顔を見つめていた。

展望台にいたのは、十分にも満たなかったかもしれない。

「さすがに寒いね」

吹き抜ける風は思った以上に冷たくて、せっかくの缶コーヒーで温まった体もすぐにその熱を奪われてしまう。そのまま遠慮する僕を半ば強引に誘ってくる彼女に根負けして、二人して彼女のアパートに駆け込んだ。

その後は何をしていただろう。僕らが過ごしたこの3年間の思い出話をしているうちに、あっという間に時間は過ぎていった。僕もなんだか別れがたくて、迷惑かとも思ったけれど、つい長居をしてしまった。

なんとなく点けっぱなしのテレビを見ているうちに、いつの間にか彼女はベッドで眠ってしまっていた。これが僕たちの一生の別れになってしまうかもしれないことを、彼女もどこかで感じていたのかもしれない。毛布を掛けようとして、ふと彼女の顔を見つめると、一筋の涙が白い頬を伝っていた。それはとても美しくて、少しでも触れたら壊れてしまいそうに儚かった。つう、と一筋流れる涙を優しく手で拭うと、僕は静かに立ち上がる。

窓の外には皓皓と光る月。
その光が染み渡っている室内で、僕は彼女にそっと別れのキスをすると、静かに彼女のアパートを立ち去った。

空には満月。月の光が満ちる道を、僕は未練をぽろぽろとポケットからこぼしながら、夜道を一人、歩いていった。

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