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きたときよりも美しく


新しく出来たクリーニング店に行きたいと野口康夫が妻の聡子から言われたのは土曜日の事だった。まず彼の脳裏に浮かんだのは面倒だな、という言葉だった。自然と眉間に皺が寄る。

「いつもの所じゃ駄目なのか。あそこならうちから歩いていけるだろう」
「そうなんですけど、なんでも凄く奇麗になるって評判なんですよ。お隣の奥さんも良かったって言ってましたし」
「クリーニングなんてどこも一緒だろう」
「あなたのワイシャツだってあるんですよ。毎日着るでしょう?奇麗な方がいいじゃありませんか」

いつもならすんなりと引き下がる聡子が今日に限って妙に強情だった。
長々とこいつと口論するのも面倒くさいと考えた康夫は、しぶしぶと車を出すことにした。エンジンをかけて待っていると聡子は一抱えほどもあるクリーニング袋を持って車に乗りこんできた。

「おい、さすがに量が多いんじゃないか?」
「ちょうど季節の変わり目じゃないですか、夏物をクリーニングするんですよ」

説明されたものの、康夫は納得がいかない。運転中もぐちぐちと不満が募るばかりだった。

「わざわざ遠くの店まで行って、そんな大量にクリーニングするのか。普段からこまめに出しておかないからだ」
「そうは言いますけど、ついこの間まで暑かったでしょう?夏物を出すにはまだ早かったんですよ」

車でそこそこの距離を走ったのちにたどり着いた新しく出来たというクリーニング店は、確かに出来たばかりという事もあってか見た目も奇麗で落ち着いており、今どきの店らしくコインランドリーやカフェまで併設された洒落た店だった。言われなければクリーニング店だと気がつかず、喫茶店か何かかと思ったかもしれない。

これまで康夫が抱いていた従来のクリーニング店のイメージではカウンターの裏にずらりとクリーニング済みの衣類が掛けられている所を想像していたのだが、いざ店に入ると笑顔でこちらを出迎えた店のスタッフも落ち着いた服装で、まるでホテルのフロントを思わせる受付だった。
物腰も柔らかくスタッフがこちらに問いかけてくる。

「いらっしゃいませ、クリーニングのお預かりですか?」
「はい、ええと初めてなんですけど」
「それでしたらまずはご要望をヒアリングさせていただきます。お手数ですがこちらのアンケート用紙にご記入をお願いできますか」

フロントにクリーニング袋を置いて聡子はカウンターで差し出された用紙になにやら記入している。その間に他のスタッフがさりげなく「お預かりします」と言って袋ごと衣類を回収していた。
それを見ていた康夫はやたらと高級そうだな、という印象を抱いた。見回してみても料金表などは目の着くところには掲示されていない。これは客に対してあまりに不親切なのではないか?

「そもそもクリーニング店なんて服の汚れが落とせればいいだけだろう、無駄に凝っていて、値段も高いんじゃないか?」

康夫は店に入ってからも不満げにぶつぶつと小さく文句も言っている。どうにも手持無沙汰なのも一因かもしれない。聡子は慣れたもので素知らぬ顔で康夫の愚痴を聞き流して、黙々と用紙に記入を続けていた。
おい、まだかと康夫が聡子に声を掛けようとしたところで、また別のスタッフが康夫に声をかけてきた。

「ご主人はよろしければこちらでお待ちください」

スタッフはそう言って隅にあるパーテーションで区切られたブースへと康夫を案内する。街中のカフェにあるようなふかふかとしたソファに促されるまま腰かけると、想像以上に柔らかく沈み込む座面は康夫を戸惑わせた。
康夫がソファに座るとすかさずカップに乗ったコーヒーが差し出される。

「サービスですので、どうぞお召し上がりください」

淹れたてであろうコーヒーは香り豊かに湯気を立てていた。ちらりとパーテーションの隙間からカウンターの方を覗き込むと、まだ聡子は何か書き込みを続けているようだった。そんなにも書くことがあるのかね、と思いつつせっかく出されたのだからとコーヒーを一口飲んだ。途端に香しい風味とまろやかな苦み、そしてほのかな酸味が一体となって康夫の舌をくすぐった。
それは下手な喫茶店のものよりも遥かに美味な一杯だった。
……ただのクリーニング屋なのに、なかなかどうして、美味いコーヒーを淹れるじゃないか。
しかしそうなるといよいよクリーニングの値段が気にかかる。
これでクリーニングの出来が悪かった日には文句の一つも言ってやろうと思いながら、ずぶずぶと沈むソファにつられるように康夫の意識もゆっくりと沈み込んでいった。

スタッフがソファに体を預けたまま意識を飛ばした康夫を確認し、聡子に声をかける。

「ではこちらでお預かりしますね」

そう言ってキャスターが仕込んであったソファごと店の奥へと康夫を連れていく。聡子はスタッフに「お願いします」と言いながら神妙に頭を下げる。彼女がカウンターで記入していた用紙には、クリーニング品目の欄に「夫、野口康夫 55歳」と記入されていた。

「クリーニングが仕上がりますまで、奥様はこちらでおかけになってお待ちください」

先ほどまで康夫がどっかりと座っていたブースに、今度は聡子が案内される。ソファはいつの間にか新しいものが用意されており、聡子が座るとすぐにコーヒーが差し出された。

「どうぞこちらをお召し上がりください。ああ、これには眠くなる成分は含まれておりませんので、安心してお飲みになって結構ですよ」

久しぶりに聡子はコーヒーをゆっくりと楽しんだ。コーヒーを飲み終えた後は、マッサージのサービスまでついてくる。

夢見心地でマッサージを受けながら待っていると、『クリーニング』を終えた康夫が店の奥から軽い足取りで姿を現した。心なしか肌艶もよく、刻み込まれたようになっていた眉間の皺はすっかり消えて、溌溂とした表情を浮かべている。

「すまない、なんだか待たせてしまったようだね」

そう言いながら彼が聡子に見せた朗らかな笑みは、まるで新婚当時を思わせる魅力的なものだった。
こっそりとスタッフが聡子に耳打ちをする。

「いかがですか?ご希望通りの仕上がりでしょうか?」
「ええ、大満足です。希望通りにとっても奇麗になりました!」

そう言って聡子は心底嬉しそうに笑ったのだった。

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