見出し画像

夏越の祓


しとしとと小降りの雨が降る中、氏子さん総出で編んだ茅の輪を神社の入り口の鳥居に荒縄で結わえ付ける。地面に置いてあるときもサイズがあるとは思ったけれど、立ててみるとやっぱり大きい。

今年に入ってから巫女のアルバイトを始めた私には初めて見る光景だった。
私がぽかんとした顔で茅の輪を眺めていると、今年は特に集団で集まることができなかったから、準備も大変だったのよ、と氏子のおばさんが教えてくれた。氏子には年寄が多いからねぇ、とマスクをつけた上からでも分かる笑顔で準備された茅の輪を誇らしそうに眺めている。
集まるのが大変な時でも、それでもなんとか皆で協力して一つの物を作りあげる。昔はなんでもそうだったのかもしれないけど、今では貴重な機会なのかもしれない。

「せっかく立てたんだから巫女さんもくぐってちょうだいな」

おばさんに促されて私は茅の輪の前に立つ。

ええと、どの順番でくぐるんだっけ。左に一回、右に一回、また左に一回。あれ?右からだったっけ?
困って右を向いたり左を向いたりおろおろと立ちすくんでいると、準備の様子を確認しに来た神主の武部さんが察して教えてくれた。

「左からで合ってますよ。間違えないようにしてくださいね。巫女さんが間違えているとちょっと恥ずかしいですよ」
「すいません…」

武部さんに見られていた時点で相当恥ずかしかった。
神主さんと言ってもまだ若くて、見た目からすると20代だろうか。
先日急逝したお父さんの跡を継いだからだそうだけど、神主というとおじいさんを想像していた私は初めて会った面接で思わず「本当ですか?」と聞いてしまったのだ。
後から考えてもだいぶ失礼な話で、よくバイトに採用されたものだと思う。
思い切って採用理由を聞いてみたら、

「素直そうに思えたものですから。巫女さんは神にお仕えするのですから、素直が一番ですよ」

と言われてしまった。その時から私はすっかり武部さんのファンである。素直どころか不純にも程があると思う。
武部さんは教えてもらった順番通りに茅の輪をくぐろうとした私に向かって、

「茅の輪をくぐるときには『水無月の なごしの祓 する人は ちとせの命 のぶといふなり』と唱えるといいですよ」

と教えてくれた。えと、急に言われても覚えきれません。困った顔で武部さんの方を見ると苦笑しながら「無理に唱えなくていいですから、どうぞくぐってください」と促された。
言われたとおりに茅の輪をくぐる。くぐり終わってホッとしてから武部さんに「今の和歌はどういう意味ですか?」と聞いてみた。

「六月に夏越の祓をする人はみんな長く寿命を延ばすというそうだ、という意味です。たしか『拾遺和歌集』巻五にある、詠み人知らずの歌だったと思います」
「へえ、詳しいですね」
「これでも神主ですからね」

それは確かに。また無意識に失礼なことを言ってしまったかもしれない。
慌てた私は誤魔化すように聞いてみる。

「そもそもこの行事の由来ってなんなんですか?」
「きちんと話すと長いのですが…蘇民将来という人が旅人をもてなしたところ、この旅人はスサノオノミコトで、その教えに従って茅の輪を身につけて疫病から逃れた、という故事に由来します。疫病はいつの時代も恐ろしいものだったんですね」
「…そうですね。今なら私もそれは分かります」

そうなのか。疫病、疫病かぁ。特に今年は疫病が流行っている年だ。
昔の人たちも、目に見えない疫病に対して少しでも出来ることをと考えて、この行事を行ってきたのかもしれない。
先行きの見えにくい世の中だけど、この行事が少しでも誰かの慰めになればいいなと思う。

小降りだった雨がすっと上がり、日の光が見えてきた。
雨露に濡れた茅の輪が日の光にきらめいてキラキラと輝いて見える。

しがないアルバイトの巫女だけど、私が捧げるちっぽけな祈りがせめて少しでも力になりますように。
私はそう祈りながら、もう一度、今度は教えてもらった和歌を唱えながら茅の輪をくぐり抜けた。


更なる活動のためにサポートをお願いします。 より楽しんでいただける物が書けるようになるため、頂いたサポートは書籍費に充てさせていただきます。