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心を大事にしてあげるためにnoteを始めた

noteをついに始めてしまった私だけど、始めて「しまった」というからには理由がある。

私は、元々noteに苦手意識があった。
あれはポエムを書く人(だけじゃないけど)の承認欲求が、たーくさん集まったところという認識だったし、
実際に中高の友達や元カレがnoteに投稿しているのを見た時は、誠に(色んな方面に)失礼ながら引いてしまった自分もいた。

そんな私が、むず痒い気持ちを抱えたままnoteを書いている理由は、ずばり自分のため。
自分の心を大事にしてあげるため。

私は幼い頃から自分のことを犠牲にして生きてきた方だった。…ということに気づいたのはつい最近だったのだけれど。

テスト/受験や部活も習い事も、自分を追い込んで、とにかく勉強や練習をする。そしたらやっぱり成果は出たし、どの部門でもそれなりに良いポジションにつくことが出来た。

それだけではなく、人間関係もそうだった。当の本人よりも怒って悲しんで、本人の代わりに闘ってでも友達を守りたい性分で(それは今も変わってないのだけど)、結果的に当事者たちは仲直りして、私だけ置いてけぼりで、ということも何度も経験した。

すぐこの騒動は治まるって分かってるのに誰よりも過度に心配しちゃうし、案の定すぐ解決しちゃって私だけ取り残されて凹むの、何百回も繰り返してるから今回はやめよう、と毎回思うけれども、
万が一大事になったら…と思うと心配をやめられないし、その人のこと自分事みたく考えられる純粋さも捨てきれないのだろう、とも思う。

でもそれゆえ、自分ごとのように捉えすぎるゆえ、爆発してしまうことも多い。

そうやって爆発した時や、時折どこから湧いてきたのか分からない、けれど確実に私を嫌な方に襲い導いてくる悪い雲に対して、よく自分を責める。

しばしば「自分を責めることが1番楽」というけれど、そうかい?と思う。

私だっていつもこんな気分じゃないし、余裕のある時なんかは理解できなくもない。
けど自分を責めることで、自分の心にマイナスな言葉を投げつけることで、本人は気づいていないかもしれないけれど相当負担がかかっている。植物に素敵な言葉や音楽をプレゼントして育てる方法と原理は同じでしょ?

…というのも後半の部分は、私が自分を責める様子を見た私の知人に言われて気づいたことなのだが。

私は他人に対して暴言を吐いたり、心ない言葉を投げかけることは滅多にしない。小さい頃、母に言われた「お天道さまが見てるよ」が私を守るのだ。お天道さまは見てる。
でも大きくなるにつれて、お天道さま関係なくどんな人間になりたいかを考えた時に、そんな類の言葉は言わない選択しか浮かばなかった。えらい。それだけでえらいんよ。

でも自分には平気で酷い言葉をかけちゃうからまだまだ二流三流、にも及んでいない。八流くらい。お天道さまは見てるのに。それを口にした人に返ってくるのに。

自分の心にネガティブで醜い言葉をかける私だが、一方で友達にはすごくポジティブで素敵な言葉をかけられているんじゃないかと思う。良く言えば柔軟な発想、悪く言えば他人事。
自分じゃ絶対そんなに前向きに捉えられないのに、そんなこと言って。結局は他人事なのかなあと思う度に、いやいや私は純粋にその人が幸せになる、良い方向へ進んで欲しいと願っているからそう声をかけるのよ、と言いたくなる。何も問いかけてこない誰かに。
だから落ち着いて、客観的に自分を見て、自分にもそうやって声をかけてあげられたらいいな。

その思いがnoteを始める原動力になりました。


…………
長々と喋ってしまったけれど、私は気持ちを文字に起こすことで、自分の心を責めたり負担をかけないようにしたい。
元々は日記を書いていたのだけど、それはある時からやめてしまったので(理由はいつか書くのかも?)、心機一転、こちらで日記の感覚で文章を書いてみる。

お暇があったら是非、他人のこの日記を覗いてみてね。