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れさん列伝  精神病院でもアパートでも仁義ある暮らしぶりの肝っ玉  れさんは、一昨年(2013年)、80歳で、い病の共同墓に、入っていった、サイゴまで、配膳された、御膳を、渾身の一撃で、ひっくり返して、いた。


れさん列伝 
 精神病院でもアパートでも仁義ある暮らしぶりの肝っ玉
れさんは、一昨年(2013年)、80歳で、い病の共同墓に、入っていった、
サイゴまで、配膳された、御膳を、渾身の一撃で、
ひっくり返して、いた。

肝っ玉かあさんみたいな、仁義ある、病者だった。
在日の二世で、本名で、通した。
ぼくたちも、本名の、れさん、れさん、と当たり前のように、呼んでいたが、
歳と云うか世代と云うか時代のことを考えると、それは、凄いことだった。
夏レクも、一回だけ、ダツタか、一緒に行った。
あの年の夏レクは、今から考えれば、
ぼくが見知っている第一世代の
濃厚な凄みのある病者が勢ぞろいしていた夏レクだった。
確か、れさん、つさん、かさん、てさん、たさんも、おのおいちゃんも
みんな、海水浴をしていたか、海辺には居てたような気がする。
その、れさん、つさん、かさん、と云う、十全会東山サナトリウム生き残り肝っ魂母さんトリオ
と云う、ような、凄い面子と、河原町で、ビラ撒きをした。
そさんの指示で、行ったのだが、それはそれは、凄い光景だった。
ソコだけ、異質な空間が、存在しているかのようだった
アレぞ、ビラ撒きの神髄であろう。
ドンな中味のビラだったのか、忘れてシマッタ

日ノ岡荘の二階が前進友の会で、一階がアパートになっているのだが、
そこで、管理人の、たさんとともに、かさん、あさん、達と、実に、
仁義ある、凄い、暮らしぶりだった。
四人とも、亡くなった。
食事会の度ごとに、お盆に載せて、一階のれさんの部屋まで、
運んでいたものだった。
雨の日も風の日も、お盆に載せて、運んだ。
今想えば、二階に続く、あの階段を登れなくて、
みんなの部屋に来れなくなった最初のなかま、かも、しれない。
ぼくたちの運ぶ食事会の御膳は、一度も、ひっくり返されたことなど、なかった。
若者向き過ぎるメニューが多かった、か、と、時々、反省するのだが、、、、
仁義、で、あった。
二階が、騒がしくなると、一階のれさんの部屋に避難する、なかまも、いた。
あまりに、それが、頻繁になると、
「えばっちゃん、だれだれさんが、毎回、来るんやで」と、言って、
それとなく、注意を向けるよう促されていた気がする。
ぼくのことは、えばっちでも、えばたさん、でもなく、えばっちゃん、だった。
手編みのベストを、頂いた、事がアル。
ぽつぽつと、背中に当てて大きさをはかって編んでくれた、
うれしかったなぁー
その、れさん手編みの温ったかチョッキを、毎冬、愛用している。

この時代の在日二世の女性が、戦後の混乱期を、
そしてまた、その後の経済成長期を
どう、乗り越えていったのか、生々しい、ハナシを聞かせてくれた。
売春と、ヤクザと、薬中のハナシなのだが、
それで、精神病院に捨てられる、と云うような、ハナシなのだが、
あまりに凄いハナシなので、ここでは語れない。
ただ、その後も、ヤクザポイのが、れさんの部屋に
なんだかんだと、出入りするのが、ぼくたちには、とても、タイヘンだった。
イロイロアッタンですよ。
 
れさんは、ほんと云うと、ちょっと、ヤクザポイのが、好きなのであった。
で、例の、カネで買い物などの用事を請け負って釣り銭を強引にペクッて行く、きちゃんが、また、れさんに、たかるのだった。
ところが、よく考えてみれば、
れさんが、きちゃんの相手をしてくれていたおかげで、
もっと、温和しい、かさんや、あさん達が、
きちゃんに、引っかからずにスンだ、のカモシレナイ、と、そう想う。
ただ、そういう仁義を破って、なりふり構わず、やり出したときに
きちゃんに対する、その行動に、ぼくたちの怒りが、バクハツしたと、想う。
もっとも、その後だって、きちゃんは、れさんのトコロに、度々、出入りしていた。
こうなってくると、もはや、
どちらが、兄貴分の方で、どちらが、使い走りの方なのか、
分からなくなってくる。
今想うと、れさんにしてみれば、ぼくたちに、頼めないようなことを
きちゃんに、頼んでいたのかもシレナいと、そう想う。
だって、ニンゲンだもの、れさんにも、イロイロあったのだろう。
ぼくたちには、知られたくないことや、頼みズラい事が、
イロイロアッタンだろうと、想う。
ソコラいら辺を、イマの福祉制度や、福祉の専門職達は、
ナァァーーにも、分かっちゃイナイんだろうなぁぁーーと、そう想う。
そんなに、キーサンは、品行方正な暮らしぶり、バカリと云う、ワケじゃあ、
ナインですよ。ワカッテイルノカなぁぁぁーーー

そうそう、何時ものあのバットだったかな、エコーだったか、
そうだ、とにかくフィルターはついていた
そのフィルターのトコロまでぎりぎりに吸ってた
だから両手ともの人差し指と中指の先の方が何時も黄色く為ってた
よくやけどしないものだと何時も想ってたけれど、
その煙草を吸いながら、さ、あの大きな灰皿を前に
きちゃんに用事を言いつけてた、んだろうなぁぁーー
ボクが入っていくと、きちゃんはそそくさと出て行って
ソノかわりに、ソコにえばっちが座って用事を聞くことに為るのだった

い君が、学生時分アルバイトとして来ていた時分の、
れさんの入浴のハナシは、とても、凄すぎて
ここでは、語れないけれど、
ぼくたちのなかでは、
語り草、となっていて、ついには伝説化しそうである。
なかなかに、マニュアルなんかでは語れない
ハッキリ言って、今時の専門職連中には、考えも及ばないであろう
入浴介護、と云うか、入浴のお手伝いと、云うか、、入浴の促し、と云うか
れさんらしい、と云うか、い君らしい、と云うか、、、、、
そのうち、い君から語って貰える日が来るだろうと想う
 
その、い君が、東京から戻ってきてくれて、やすらぎの里のスタッフに返り咲いてくれた。
れさんは、大喜びである。
アルバイトの、い君さ君が、お気に入りだった。
それで、い君が、機会をこしらえて、なんとか、い病院から連れ出して、
たさん達と共に、お好み焼きを食べに自主外出を、やっチャッタのが、
良かったなぁーと、想うのである。
れさんは、い君が、お気に入りであった。
ココ、二、三年、夏レク冬レク琵琶湖ホテル豪華ランチヴッフェに、
一緒に出掛けられたのが
良かったなぁーー、と、想うのである。

亡くなる二週間前の、い病院訪問の時に、
そう、その時は、ライターの浅野さんを
案内していたのだが、その時に、アイスクリームが食べたいと云うので、
や君が走って、院内売店で買ってきてくれて、
ざ君が、食事介護して、食べて貰えたのが、良かったなぁぁぁーー、と、
つくづく、想うのである。

ムカシ、そうそう、一度、韓青同との交流会に、誘ったことが、あるのだが、
運動的政治的ハナシはそっちのけで、
「えばっちゃん、うちは、ムズカシいことは、わからんわぁ」、と言いながら
委員長さんが、橋幸夫に似ていて、男前なのを、実に、喜んでいた。
その男前の委員長に「オモニ、オモニ」と呼ばれて、本当にうれしそうだった。
「えばっちゃんは、漫才師の横山やすしによう似てるわ、食い倒れの人形にもよう似てるわ」と、よく言われた。れさんは、人のことを誰かに似ていると云うのが、実に得意だった。
祇園のなんとかと云う有名なダンスホールのナンバー2だったんよ。そのうち、えばっちゃんにもワルツやらタンゴやらを教えてあげようね、と言っていたが、
その機会はないままに終わった。
ダンスホールでの『儲け』の仕組みなども聞いてはいたのだけれど、
とにかく、そのーー
イロイロな、ことを、たいしたことの無いように、ハナシていた。
それで、時々、聞いているコチラが、腰を抜かすのであった。

家族のハナシも、時々出るのだが、ぼくの知る限り、家族が、訪ねて
来たことは、一度も、無かった。
本当に、家族、とは、一族、とは、無縁、だった。
子供さんも、いるような、ハナシだって、弟さんが、いるようなハナシだって、
嫁ぎ先の御姑さんが、キツカッタハナシだって、聞いては、いたのだが。
家族とは、まったく、無縁だった。
さぞ、悔しかった、ダロウと、想う。

れさんの一生を『生きづらさ』と、言われてしまう、
わけには、いかないと、想う。断じて、ね。
れさんの前にも
れさんの後にも
れさんのような、人生が、引き続いていて、
それは、前進友の会の第二世代や第三世代にも、
共通なので、ある。
えばっちも、含めてね。
だから、我々キーサンの人生を
『生きづらさ』と云うコトバに『すり替える』動きには
敏感に反応して、その度ごとに、
それは、チガウのだ、と、言い続けようと、想う。
さもないと、我らキーサン人生が
『すり替えアクジ』のハンニン達に、、、
亡き者にされちまうだろうしね、、、、
それか、いいように変形させられて、歪められて
貶められて、リヨウされちまうだろう、な、、、、

れさん、一緒に、それはチガウと、
叫ぼう、ぜ
クスリもゼロに為るらしいで
ほんとうかな、って、想うダロ
ほんとうかな、って、さ
ヤタラとヤカラなヤツラが
イイコトしてるツモリになって
それで、飯喰って
子供を大学に行かせている
ヤカラとヤタラにニコニコして
運んで来る御膳を
一緒に
バーーーーァァァアンと
ひっくり返そうヤナ


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