見出し画像

【怪談】押し入れの中

 私の知り合いにAさんという人がいました。Aさんは派遣社員として工場で働いていましたが、不況のあおりを受けて解雇されてしまいました。その後別の仕事につきましたが、給料はそれまでよりも下がってしまいました。アパートの家賃の支払いもきつくなり、もっと安いところを探していたところ、その物件が目に入りました。

 そのアパートは築年数も新しく、それでいて家賃はずっと安くすみます。それどころか周辺のほかの物件に比べても格段に安く、Aさんはなにかあるのではないかと不安になりました。不動産屋に問い合わせると、どうにも住人が居つかないので次第に安くなっていったとのことでした。しかしその部屋でなにかあったわけではないと不動産屋はいいました。Aさんは迷いましたが、背に腹は代えられず、引っ越すことに決めました。

 部屋に荷物を運び入れていると、ちょうど隣の部屋の住人と顔を合わせました。隣人はAさんと同年代の男性でした。Aさんが挨拶すると、男性は微妙な顔をして、もごもごと挨拶を返してきました。その様子に、Aさんは不審に思いましたが、そのときはそれで終わりました。

 住み始めてすぐは緊張していたのですが、特になにが起こるということもなく、二、三日すると気持ちもゆるんできました。

 そんなある日のこと、仕事で疲れて眠っていると、かり……かり……という、なにかが引っかく音がして目を覚ましました。Aさんは最初、虫が入ってきてふすまにでもとまっているのかと思いました。ゴキブリだったら嫌だと思い、音の出所を探しました。明かりは常夜灯だけですが、暗闇に慣れた目にはそれでも十分でした。

 部屋のなかを見まわしても、それらしきものは見当たりません。耳を澄まし、音の方向を探ります。するとどうやら、押し入れの中から聞こえてくるようです。Aさんは起き上がると、おそるおそる耳を近づけました。すると確かに、引っかく音は押し入れの中から聞こえてきます。

 Aさんの常識的な部分が、このなかに虫が入り込んでしまったのだと考えました。しかしその一方で、より本能的な、直感的な部分が、これは虫なんかではない、もっと危険なものだと警報を鳴らしていました。

 Aさんはどちらを取ったらいいのかと逡巡しつつ、押し入れの様子を探ろうと、もっと耳を近づけました。

 耳が押し入れのふすまに触れそうになったとき、なかから苦しげな呻き声が聞こえてきてAさんはあわてて耳を離しました。声は「開けて……開けて……」と繰り返しています。しかしAさんは、とてもではないがそんなことはできません。押し入れから一番離れた部屋のすみにうずくまると、眠れない夜を過ごしました。

 朝になり、引っかく音と呻き声はいつの間にかやんでいました。おそるおそる押し入れを開けると、そこにおかしなものはなにもありませんでした。しかしそこに布団をしまう気にもなれず、押し入れから引っ張りだした服とともに、部屋のなかに積み重ねました。

 Aさんは緊張と睡眠不足ですでに疲労困憊でしたが、それでも仕事に行かなくてはなりません。朦朧としながら家を出ました。すると玄関先で、隣の部屋の男性とばったりと会いました。

 Aさんは軽く会釈した後、思い切って訊いてみました。これまでこの部屋に住んでいた人はすぐに出て行ってしまったそうだが、そのことについてなにか知っていることはないか、と。

 すると男性は小さな声で「やっぱり」と呟きました。

「やっぱりとはどういうことです?」
「俺がここに住み始めてから、その部屋の住人はあなたで四人目なんすよ。みんなあなたみたいに怯えるようになったんです」
「マジですか……」
「あなたになにが起こったか、訊いてもいいすか?」
「押し入れから、引っかくような音と、呻き声が聞こえてきたんです。開けてくれって」
「それも一緒ですね」
「この部屋で、事件や事故があったということはないんですか? 自殺とか、殺人とか……」
「いや、俺の知る限り、ないすね。ほかの住人も、知らないっていってました」
「みなさんのところではそういったことはないんですか?」
「ないっすね。その部屋だけみたいです」
「前に住んでいた人は、なにかいってませんでしたか?」
「あなたの二人前にいた人なんですけど、その人がいっていたのは、押し入れから聞こえる声に返事をしちゃいけない、しなければなにも起こらないってことです」
「返事をしたらどうなるんです?」
「ひどいことになるそうです」

 それを聞いてAさんは呻きました。今すぐにでも出ていきたいが、先立つものがありません。金が溜まるまで我慢するしかないのです。

 それからほとんど毎日のように引っかき音と呻き声が聞こえてくるようになりました。そのたびにAさんは目を覚まし、朝まで怯えながら過ごすことになりました。それが大変なストレスであることは想像に難くありません。Aさんは日に日にやつれていきました。

 そんなある日、給料の出た後、Aさんは同僚と飲みに行くことになりました。溜まっていたストレスもあって、Aさんはついつい飲み過ぎてしまいました。

 帰る途中のコンビニで缶酎ハイを買い、家でも飲んでいると、押し入れからまた声が聞こえてきました。アルコールが入って気が大きくなっていたAさんは、ついつい押し入れに向かって怒鳴り返してしまいました。

「うるせえ! 出てきたいなら勝手に出てこいや!」

 すると、ぴたりと声がやみました。部屋が恐ろしいくらいの静けさに満たされます。

 Aさんが押し入れを凝視していると、ぱちぱちと電灯が明滅し始め、ついに切れてしまいました。明かりは窓の外から入ってくる街灯のみです。

 Aさんが見つめている前で、すっと押し入れのふすまが開き、五センチほどの隙間ができました。その隙間から真っ白な手が現れました。手は指をうごめかしながら前に進んできます。手は蛇のように長く伸び、Aさんに向かってきます。それでもAさんの体は固まったまま、動くことができません。

押し入れの隙間がさらに広がり、ぎょろりとした目が覗きました。その目を見て、Aさんの硬直が解けました。Aさんは大声で叫びながら、玄関に駆け出しました。脱ぎっぱなしにしていた服に足を滑らせ、盛大に転んでしまいます。もがきながら起き上がり、玄関のドアを開けます。

 外に出てからも、Aさんは叫び続けます。その声を聞いて、アパートのや近所の住人が顔を出します。そこには隣の部屋の男性も混じっています。

「どうしたんですか?」

 男性はAさんに駆け寄ると尋ねました。

「部屋に化け物がいるんだ! 化け物が!」
「化け物……」

 男性は部屋を覗き込みました。

「いや、いないですよ」
「そんなはずはない! いるんだよ!」
「とにかく落ち着いてください」

 しかしAさんは叫び続けました。パニックだったこともあるし、そうしないと恐怖に心が耐えきれなかったこともあります。そうこうしているうちに、警察もやってきました。

 結局Aさんはすぐに退去することになり、心身を病んだAさんは仕事も病めて親元に帰ることになってしまいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?