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ショートショート【その猛獣は直方体】

 森を進み所々に見えたのは、大きくえぐり取られたような跡の残る木の幹だった。あたりを見渡せば根元付近からへし折れた木々も見え、その折れた箇所を観察すればみな一応に、同じようなえぐられた痕跡が見つかるのだった。
「これは完全にそうですね」
 高橋さんはその跡にそっと手を触れながら僕にそう呟いた。
「やっぱり熊とかなんでしょうか?」
「いいや、熊にこんな大きな噛み跡、つけられないでしょう」
 高橋さんの言う通り、その跡は明らかに大きすぎた。長さにしては優に1メートルはあるのではないか。仮にこの跡が幹を食い破ってつけられたものであるとすれば、そんな芸当が出来る動物など、カバくらいのものではないか。だがここは日本の片田舎にある山の中なわけで、まさかカバが住んでいようなどとは、とても考えられない。
「あんまり触れすぎるのも危ないですね、これだけ食い破られてるとなると、流石にバランスが悪い」
 あまりに深くえぐられたその跡は幹の中心にまで充分到達しており、確かに強く蹴りでもすれば簡単に折れてしまいそうだった。既にへし折れ、倒れた木々はその微妙な狭間に敗れたもの達なのだろう。試しにいくつかの木を指先で強く押してみると、それだけでも僅かに揺らいだ気がした。
「別に無理してついてこなくても大丈夫ですよ、相手は猛獣ですから」
 猟銃を肩にかけた高橋さんは、振り返り僕にそんなことを言った。
「けど村の一大事ですから。迷惑かもしれませんが、どうかご一緒させてください」
「危なくなったらすぐ逃げてくださいね」

 ここ最近、村の畑が食い荒らされることが多くなった。山に囲まれたこの村で、畑で作られた作物が齧られることなどは格段特別なことではない。だが最近のそれはあまりにも酷すぎた。村人も寝静まる真夜中に降りてくるらしいその猛獣は村の畑のありったけを食い荒らし、朝陽と共にその成れの果てを目にした村人たちは、老若男女変わらず悲痛の声をあげた。
 猛獣も人の群れを警戒しているのだろうか、昼間に村を襲うことは無かったが何度畑を直そうとも、やつは夜中に現れ、全てを食らい尽くしていくのだった。そして山道で見つかる木々を食い破ったような跡も日々増えていった。
 そんな数多の痕跡を目にする度に村人の間では、この猛獣は果たして熊や猪などの類で縛られる範囲のものなのだろうかという疑問と、この猛獣はきっとじきに私達自身にも直接の危害を与えだすだろうという圧倒的な予感が膨れ上がっていくのだった。
 そうして僕は村人を代表して力になってくれそうな猟師を捜しまわった。相手が未知数の猛獣である以上、そこら辺に転がっているような普遍的な猟師では不安だった。そのために僕は結局何人かの猟師を渡り歩き、彼ら同士の紹介によって数珠つなぎ式に高橋さんまで辿り着いた。なんでも高橋さんはありとあらゆる猛獣に対処できる数少ない凄腕猟師であり、話をすると快く僕らの頼みを引き受けてくれた。

 高橋さんと僕は木々の間を縫うように歩き続けた。そして次第に気づくのは、歩くにつれ食い破られた木々のある割合が明らかに増えていくことだった。
「もう少しです」
 高橋さんは僕に体勢をもっと低くするよう指示し、僕らは歩くペースをじっと落として周囲を注意深く伺いながら進んでいった。そして「いた、あれですね」という小さな声を聞き、高橋さんの指さす方向を見ると、そこには僅かばかりの木々が拓けた空間があり、そこにあったのは一台の冷蔵庫だった。そしてさらに驚くことには、その冷蔵庫はゆらゆらと一人でに、動いていたのである。ゆっくりとあたりを徘徊しながら、時折自らの扉をぱかりぱかりと開いたり閉じたりしていた。
「……高橋さん、あれは」
「見たらわかるでしょ、冷蔵庫ですよ」
「冷蔵庫?どうして」
「誰かがこの山の中に不法投棄したんでしょう。それで野生化しちゃったんでしょうね」
「……野生化」
 冷蔵庫が野生化し、ひとりでに動き出す。とても信じられる話では無かったが現に目の前で冷蔵庫が動いている以上、それは信じるほかなかった。だが本当にあんなものが畑の作物を食い荒らしていたのか。
「なんでも動くにはエネルギーが必要でしょう。コンセントから電気なんてもらえなくなった今、やたらめったらと食べるしかないんですよああなったら」
 高橋さんは冷蔵庫に気配を悟られぬよう、そっと肩から猟銃を外し構えた。鈍く光る銃口はあの冷蔵庫を捉えている。
「じっとしててください。冷蔵庫は鼻が良くないですから、大きな音とか、こっちの姿が見られるなどしなければ見つかりません。だからすぐ終わります」
「木を食い破ってたのもアイツですか?」
「あの扉には要注意ですよ。僕らなんて簡単に殺されちまう」
 あの大きな跡もカバでは無く、大きく開かれる冷蔵庫の扉によって食い破られていたらしい。そんな衝撃の事実と、目の前で動く冷蔵庫の奇怪な姿にすぐには慣れず、僕は無意識にふらふらと身体が揺れてしまっていたらしい。不味いと思った瞬間には既に遅く、僕は身体のバランスを崩し、隠れていた木の幹から外れ、どしりと大きな音を立てながら倒れ込んでしまった。
「まずい!」
 高橋さんも僕を助けるためにすぐに隠れていた幹から飛び出した。そして冷蔵庫の方を見ると、僕らの立てた物音に気づいたのだろう、ゆっくりとその前面を僕らの方へと向けた。
 冷蔵庫と目が合うなどという経験は、もう二度と味わえないのではないかと思う。だがあの時僕は確かに、冷蔵庫と目が合うという経験を得た。そして次の瞬間、冷蔵庫は凄まじい速さで僕の方へと駆け出し、向かってくるのだった。
 遠目ではあんなに小さく見えた冷蔵庫が、土や泥、落ち葉を一挙に巻き上げながら、見る見るうちに視界の中で大きくなっていく。その冷蔵庫は僕の背丈を越えるほどの鉄の塊であり、今や僕など簡単に殺せてしまうことを思い出した。
 僕の耳元で巨大な音が響いた。鼓膜が張り裂けるほどのその轟音、そして火薬の匂い。隣で高橋さんが発砲したのだということが分かった。そして冷蔵庫は勢いよく後ろ向きに倒れた。
「急所は外れました。急いで退きましょう」
 高橋さんに抱えられ、僕はやっとのことで身体を起こした。冷蔵庫の方を見ると確かに倒れているがまだジタバタとと激しく動き、どうにか身体を起こそうともがいている。
「すみません、すみません」
 必死に謝りだす僕を高橋さんは制し、急いで逃げる体勢を整えるよう僕に指示した。
「逃げながらどうにか仕留めます。急いで」
 足をもつれさせながら、僕はよろよろと動き出した。今まさに僕は冷蔵庫に殺される寸前だった。その恐怖が身体の動作を狂わせていた。
 後ろを振り向くと既に冷蔵庫は起き上がり、木々の隙間を縫いながらこちらへと向かってきていた。どうやら冷蔵庫は僕の足よりも速いらしかった。高橋さんが作ってくれた距離も、振り向くたびに少しずつ詰められている。このままでは追いつかれ、噛み殺されるのも時間の問題だった。
「まずいですね。罠を張りましょう」
「罠?」
 高橋さんは腰に吊るされたカバンからナイフを取り出すとそれを僕に手渡した。
「これで木を倒しまくってください。隙を見て私がとどめを刺します」
「木を倒す?無理ですよそんなの!僕の力じゃ、いくらナイフがあったって!」
 だがその時僕は気づいた。周囲にはナイフさえあれば容易に倒すことの出来る木々があることを。
 僕らは冷蔵庫に食い破られた跡のある木々の横を選びながら走った。前方では高橋さんが機を待ちながら猟銃を構え、僕はすれ違いざまに木の跡の部分を深く切りつけ、上手く倒れてくれることを祈る。
 数本に一本程度、ゆっくりと倒れてくれる木々があった。あとは後ろで冷蔵庫が、運よくその木に潰されることを願った。だがそんな幸運は中々訪れてくれず、冷蔵庫との距離はじりじりと短くなっていった。
 背後あと僅かの距離で音が鳴る。それは明確な殺意と質量を持った冷蔵庫が踏みしめる枯葉や土の音だった。そして僕は朦朧とし始める意識を懸命に振り払いながら走り、おそらくはもう最後の一本であろう木を切りつけた。
 その木はゆっくりと、まっすぐ後方に向かって倒れた。そしてその先にいたのは一目散にこちらへと向かってくる冷蔵庫であり、みしみしと割れ、そして爆ぜる音を立てながら折れていくその幹は、最後に冷蔵庫の身体を押しつぶす轟音をたてた。
 がたん、ばたんと、どうにか身体の上の幹をどかそうと冷蔵庫は大きく身体を揺さぶっていた。だが冷蔵庫が幹をどかすそれより前に、高橋さんは猟銃の先をしっかりと冷蔵庫に向けていた。
「本当に構いませんね?」
 高橋さんは僕にそう聞いた。
「……あたりまえじゃないですか、早く撃ってください!」
「そもそもどうしてこの冷蔵庫がこの山の中で野生化していたのか、それは誰かがここに不法投棄したからです」
「だからどうしたっていうんですか、そんなの誰かが」
「野生化した家電達は、元々の持ち主に対して強い恨みを持っています。そしてさっきこの冷蔵庫が私とあなたを目にした時、冷蔵庫は一目散にあなたのところに向かっていった」
 僕は言葉も無かった。高橋さんと二人この冷蔵庫が動く姿を目にし、その姿が僕の記憶の中にくっきりと刻み込まれた冷蔵庫の姿と完璧に一致した瞬間、僕の身体に湧き上がってきたのはこれまで味わったことの無い種類の恐怖だった。
「……普通に捨てるとお金がかかってしまうので、ついやってしまったんです」
「そういう時に払うお金ってやつはね、供養みたいなもんなんだよ。これまで一緒に居てくれた物たちに対するね」
一発の銃声が響いた。そして僕が漏らすように呟いたごめんなさいという言葉を、あの冷蔵庫が聞いてくれたかは分からない。



続いてはこちらをぜひ。

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