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ショートショート【紅葉様】

 いつまでも降り続いていた蝉時雨の音もようやく止んでくれ、これでしばらくは肌を優しく包み込むような秋の空気に寄り添っていられると思ったのも束の間、すぐに冷たい木枯らしが身を震わせる。その乾いた風にはもう既に、秋という季節特有の、柔らかでいてどこか感傷的な、ふっと短い息を吐かせ、その場に立ち止まらせるような匂いは、含まれていないのだった。
 幼少期の頃、もっとこの秋という季節が長かったはずだという感覚は、私の記憶違いだろうか?年を経るごとに秋は確かにすり減っている気がして、このままいけば私が今通っている中学を卒業し、高校、大学、そして社会人となる頃にはもう完全に消え失せて、我慢ならない熱気が収まった途端、雪が降る。そんな不自然なことが自然になってしまうような、そんな想像をしてしまう。
 秋に並々ならぬ名残惜しさを感じてしまう性質だったから、私がその点々と地面に置かれた紅葉の葉を見つけたのも、きっと偶然では無かった。それを見てまだ残っていてくれたんだという秋の香りを感じるとともに、右、左、また右と位置を規則的に移ろわせながら、まっすぐに道の奥へと伸びていく紅葉の葉の連なりは、誰かの足跡のようにも思われ、気づけば私はその行く末を辿り、歩き始めていた。
 紅葉の葉は町の外れの山の中まで続いていた。そしてたどり着いたそこにいたのは、うずくまり震える小さな一人の子供だった。
「どうしたの?大丈夫?」
 私はその子供を目にして、どこかからこんな森の奥へと流れついてきてしまった迷子かと思った。歳で言えば3歳から5歳くらいだろうか。私の声がけにゆっくりと顔を上げるその子の目元にはたっぷりの涙が溜まっていた。その子供は鮮やかに赤く色づいた、まさに紅葉色といった和服に身を包み、なぜかその足は裸足だった。
 私の顔を見、そして私の手にあった一片の紅葉の葉を見ると、子供は涙を止め、僅かに明るい表情に変わった。だが子供は何も言葉を発する様子は無く、ひとまず私はその手を取って山を降りることにした。
 裸足のその足に木の枝か何かが刺さっては大変だと、子供の足元に注意を払いながらゆっくりと歩いていくと、その子どもの歩の後には一歩ずつ紅葉の葉が残されていくのだった。どうやら私が追ってきたのは、この子供の残した紅葉の足跡だった。

「まあ、紅葉様だ」
「もみじさま?」
 どこに連れていったらよいか分からなかった私は、一旦子供を家に連れ帰ることにした。すると家にいた祖母がその顔を見た途端、そんなことを溢したのである。
「秋になるとやって来るのさ紅葉様は。紅葉様、どうもご無沙汰しております」
 祖母は紅葉様なるこの子供に以前も会ったことがあるらしく、恭しい態度を見せながら頭を下げる。
「おばあちゃん、この子ね、山の中で泣いてて、それで思わず連れて帰っちゃって」
「あらそう、今年の秋はとにかく短かったからねえ。紅葉様もきっと寂しかったんだろう。ねえ紅葉様」
 祖母が顔を覗き込むが、やはり紅葉様は何も言葉は発しないようだった。
「せっかく来てもらったんなら、たっぷりおもてなししなきゃね」
「おもてなし?」
「そうさね。おもてなし」
 そう言うと祖母はテーブルの前の畳の上に座布団を敷くと、その上に紅葉様をちょこんと座らせ、いそいそと台所へと引っ込んだ。
 後を追っていくと、祖母はまず私に柿を一つ握らせた。
「切ったりしなくていいから、紅葉様にまずそれを渡してきてくれるかい」
 そう言うと祖母は冷蔵庫から様々なものを取り出していく。
「丁度色々買っておいたばかりで良かったさね」
 祖母に言われた通り、紅葉様の前に柿を一つ置いてみると、すぐさま紅葉様はその小さな手で柿の実を掴み、そのまま口を開けて柿にかぷりと齧りつく。もぐりもぐりもぐりと、皮も種も気にもせず、紅葉様はあっという間に柿を全部平らげてしまった。口の端には僅かに柿の汁が付いていたからそっと拭いてやると、その口元が少し緩んで、嬉しそうな顔をしていることに気づいた。
 するとまた台所からおばあちゃんは戻ってきて、手にしていたサツマイモやなす、梨やぶどうなんかを紅葉様の前に置いていく。どれも生の状態ではあったが、紅葉様はまた手当たり次第に手を伸ばして、口にしていく。さらにはその度にひらりひらりと、紅葉様の身体のどこかから紅葉の葉が現れ、それは舞い落ちていくのだった。もしかすればそれは紅葉様の喜びを表しているのかもしれない。テーブルの上を埋めた秋の味覚が無くなる頃には、その代わり紅葉様の周囲に、紅葉の絨毯が現れている。
 祖母が最後に持ってきたのはサンマだった。それだけは焼いてきたらしく、香ばしい白い湯気を立ち昇らせながら四尾のサンマが紅葉様の前に並ぶ。そして紅葉様はその尻尾をがしりと掴むと目の前にぶらりとぶら下げ、その頭からバリバリと食べていくのだった。
「すごい、全部食べちゃった」
 紅葉様が平らげた量は、どう考えてもその小さな身体には収まらないだろうという量だった。だがサンマを食べ終えた紅葉様の顔を見ればそれはけろりと、かつ満足げな表情を浮かべている。
「そりゃあ紅葉様だもの。秋が好きで好きでたまらないのさね」
「そうなんだ。紅葉様、私も秋好きだよ」
 それは私がふと呟いた言葉だった。だがその言葉を発した途端、紅葉様は顔をがばりと私へと向け、その頬や口元をこれまで以上に大きく緩ませ、どこまでも喜びに満ちた、そんな笑顔を弾けさせた。
 そして次の瞬間には紅葉様は飛び上がり、窓へと駆けると、開かれたその窓から、そのまま外へと飛び出してしまった。
「あ!」
 私達がいた部屋は一階だったが、私は慌てて窓に駆け寄り、その下を覗いた。だがそこに紅葉様はいなかった。
「大丈夫、上さね」
 祖母の言葉に空へと視線を移すと、そこにはふわりと身体を浮かせ、紅葉の葉を舞わせながら、はるか上空へと泳いでいく紅葉様の姿があった。
 空高くへと遠ざかっていくにつれ、紅葉様の小さな身体はその鮮やかな青に溶けて、あっという間に見えなくなってしまう。
「秋が好きな人を他にも見つけて、きっと嬉しかったのかもしれないねえ」
 紅葉様は空へと帰ってしまったのか。ひらり、またひらりと少しずつ舞い降りてくる僅かな紅葉の葉は、私に湧き上がる不思議な寂しさをより一層に感じさせるのだった。
 最後の一片が終わった時、それが秋の終わりをまさしく示している気がして、私は侘しさや悲しさも覚えた。
「……あれ、」
 だが不思議なことに、空から舞い落ちる紅葉の葉はいつまでも絶えることが無く、むしろ時間と共にその数は少しずつ増していくようだった。
 そして気づけば空一面に満ちた紅葉がこの町全体に降りしきっている。空を覆うほどの紅葉の葉の群れの隙間から陽の光は差し入り、私達にそのきらめきすらも魅せる。視界を覆うほどの鮮やかな赤は、それだけで暖かな空気を感じさせた。木枯らしだったはずの風が吹けど、その冷たさはむしろ心地いいほどに頬や首を撫でて過ぎ去る。
 町の至る所では、声が響き始めた。その光景に喜ぶ人、困惑する人、恐怖の声を上げる人。だが次第に町中を敷きつめていく紅葉のその景色に、人々はもはや受け入れ、突然現れた満開ともいえる秋を、楽しみ始めていた。外を嬉しそうに駆ける子供たちの声もこだまする。
 紅葉はいつまでも降り続けた。それも恐ろしいほどにいつまでも。そうして折り重なった紅葉の葉は、次第に厚みを増していき、町の道という道を飲み込み、建物の一階ほどの高さまで到達し、ようやく降りしきるそれらが緩やかに収まっていった。
 町は紅葉の洪水に満たされてしまったのである。
「あらま、久しぶりの景色だねえ」
 二階の和室に移り、祖母はそう呟くと、押し入れをごそごそと漁り始めた。そして奥から祖母が取り出したのは、人一人が乗れるほどの一艘の小舟だった。
「紅葉洪水の時はこれに乗って楽しむのさ」
 祖母が窓から出すと、その舟は紅葉の上にふわりと乗った。そして祖母に促され、私もその舟の上に乗り、渡された櫂を使い、おそるおそる漕ぎ始める。すると船はするりと進み初め、漕ぐたびに飛沫のように紅葉の葉が舞い上がる。気づけば私は紅葉の海の上で一人、空を見上げればまた紅葉の葉は舞い降りて、夕暮れになりつつある日差しと共に、私は紅の中にそっと溶けていくような心地だった。
 祖母の若い頃も同じことがあったのだろうか、各家にしまわれていたのであろう船の数が、時間が経つごとに紅葉の海の上に増えていく。
 舟の上の人々は、みな思い思いの時を過ごしていた。舟の上で横になり穏やかな読書を楽しむ人、景色を眺めながら秋の味覚に舌鼓を打っている人、舟の上に無理やりキャンパスを立ててこの特別な景色を描きだす人、さらには舟から紅葉の海へと飛び込み、泳ぎ始める人。楽し気なそれらの声は町を満たし、みなそれぞれの秋を満喫している。
 ふと空の奥に目をやれば、そこには紅葉様が満面の笑顔を見せながら、悠々と紅葉舞う中を泳ぎまわっていた。

 辺りが夜で満ちても、町の声が止むことは無かった。
 だがいつしか空から降ってくる紅葉は終わり、朝になるつれ町を満たしていた紅葉の海も、少しずつ水位を下げて朝陽が昇ると共に、すっかりと消え失せていった。
 元の通りになった町で、目の前にいる紅葉様は飛び跳ねて、嬉しさに満ちた表情を私にまた見せる。その顔にはもう涙は無かった。
「また来年も来てね、紅葉様」
 返事はしないが、その顔は来年もまた来年も、またやって来ることを表していた。
 紅葉様はトコトコとその短い歩幅で、紅葉の足跡だけを残しながらどこかへとまた帰っていく。
 その時頬の冷たさに顔を上げると、ひらりひらりと、今度は粉雪が降り始めていた。その雪は紅葉様の残した紅葉の葉をそっと隠して、秋が終わって、冬が来た。


続いてはこちらをぜひ。

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