ショートショート「虫捕りばあちゃん」

 山道を歩きながら私の手を引くおばあちゃんの手のひらの感触や温かさを、今でもはっきりと覚えている。
「ユウちゃん、今日はお迎えに行こうか」
 おばあちゃんは時々そんなことを言うことがあった。おばあちゃんは首から小さな虫かごを垂らして、虫捕り網を握ると、もう片方の手で私の手を握り、裏の山へと入っていくのだった。
 家に居る時はいつもちょこんと座っている可愛らしいおばあちゃんだったけど、山に入るとぐんぐんと先へ先へと進んでいくのだった。まだ小さかった私にとって、たくさんの木々や虫の声に囲まれた山道というのは好奇心と恐怖心が半々くらいでせめぎ合う場所だったけど、私の手を引くそんなおばあちゃんの姿はどこまでも頼もしく思えた。
 おばあちゃんはいつも捕まえるべき虫がどこにいるのか分かっているようだった。途中で山道が二手に分かれていても、迷いもせず進んだ。
「ほらユウちゃん、いたよ」
 おばあちゃんが指をさした方向を見ると、そこには木にしがみついた一匹のカブトムシがいるのだった。
「ユウちゃん、じゃあそれ捕まえてごらん。手をこういう形にして、そこの出っ張った部分を掴むんだよ」
 おばあちゃんは私に虫の持ち方を教えてくれた。どうすれば虫を傷つけずに持つことができるか、大事なことはそれだけだった。山道を歩き火照った体を、木々の間をすり抜けるそよ風が少し冷やした。私は頬を流れる汗の滴を感じながら、ゆっくりとその手をカブトムシへと伸ばした。
「失敗したら、飛んで逃げちゃわない?」
「大丈夫。ぜったいに逃げないからね」
 指先でそのカブトムシのツノの根元の部分を持つと、そこは私の想像以上に硬かった。そのままゆっくりと腕を引くと、カブトムシは不思議なくらい無抵抗に木から離れた。
「上手上手」
 おばあちゃんの開ける虫かごの中にそのカブトムシを入れる。おばあちゃんはそれを顔の高さまで持ち上げると、嬉しそうな顔をして、「おかえりなさいね」と言った。それはどんな虫を捕まえた時だってそうだった。
 おばあちゃんは一匹の虫を捕まえてくると、それを透明で大きなケースに移した後、大切に大切に飼うのだった。縁側にそのかごを置いて、横でお茶を飲みながらその虫に話しかけていることも多かった。そしてその虫が寿命を終え、その後しばらく経つまでは、新しい虫を捕まえに行くことは無かった。

「おじいちゃんなの」
 おばあちゃんは横のトンボに目をやりながら、私にそんなことを言った。
「ユウちゃんももう六年生でしょう。だからそろそろ話しておこうと思ってねえ」
 おばあちゃんは私に微笑みかけたが、私は言っている意味が全く分からなかった。確かにおじいちゃんは私が生まれる前にもう亡くなってしまっているけど、少なくともトンボではなかった。
「おじいちゃんね、あなたが生まれる少し前に病気で死んじゃったでしょ?その時にね、約束してくれたのよ、もし自分が死んでも、生まれ変わって必ずお前のとこにやってくるって」
 おばあちゃんは楽しそうに話し始めた。
「それでおじいちゃんが死んじゃってね、おばあちゃんがそれからずっと一人で落ち込んじゃって、この縁側でぼんやりしてた時、こうやって足元にね、ちっちゃなイモムシが近づいてきたのよ。なんでかわからないけど、それ見てすぐに分かったのよね、それがおじいちゃんだって」
「うそ、」
「いきなりこんなこと言ったって信じられないわよねえ?けどそれが本当なの。それからおばあちゃんはそのイモムシになったおじいちゃんとね、色んなことを話したわよ。嬉しかったわ。けどそしたらなんとね、遠くから鳥が飛んできて、おじいちゃんのことぴょいってくわえて飛んでっちゃったの」
「どうしたのそれ!?」
「どうしようもないわよね、私思わず叫んじゃったもの。けど心配なかったわ。少ししたら今度は、ダンゴムシになってころころ転がってきてくれたの」
 おばあちゃんは本当に嬉しそうにその話をするのだった。そんな顔を見ていると、私は次第にその話を信じるようになっていた。
「本当はちゃんと隣り合わせでいられるといいんだけどね、また鳥にもっていかれちゃうと困るでしょう?だからこれに入れておくことにしたの。これね、デパートで一番大きいやつなんだって、おじいちゃんも広い方が嬉しいと思って」
 そう言うとおばあちゃんはその透明なケースをまた嬉しそうに撫でた。
「ちゃんとおじいちゃんはこの家までやって来てくれるんだけどね、いつからかそれも待ちきれなくなっちゃって、おじいちゃんが生まれ変わったって分かったら、そこまで迎えに行くようになったの」
 私はそこでようやく幼少期から聞かされてきた、お迎えという言葉の意味を知った。

 私が中学にまで上がると、流石におばあちゃんに連れられ山の中へと行くことは無くなったが、おばあちゃんの家に行くと変わらず大きなケースが置かれていて、その中にはクワガタやテントウムシ、アリなんかの姿をしたおじいちゃんがいるのだった。一度ゴキブリの姿をしていることがあって、その時ばかりは驚いた。
「いくらなんでもゴキブリはよしてくれればいいのにねえ、けど自分じゃ選べないみたいなのよ」

 私が高校に上がった頃だろうか、ふとおばあちゃんに電話をかけると、なんだかその声には元気が無かった。急いで会いに行くと、縁側に置かれっぱなしになったケースの中には、何も無いのだった。
「突然ね、こなくなっちゃったのよ」
 おばあちゃんは今にも泣きそうな声でそう呟いた。
「生まれ変わったらどこにいるか、分かるんじゃないの?」
「いつもみたいにお迎えにね、行ったのよ。けどそこには何にもいないの。何度行ってもだめ。もう三か月にもなるわ」
 それから月に一度ほどはおばあちゃんに会いに行くことにしたが、いつになってもおじいちゃんは帰ってこなかった。その度に少しずつ弱っていくおばあちゃんの姿を見るのが辛かった。遂には一人で山道を歩き回れないほどまでになってしまったらしい。そして私は大学一年生になった。

 初夏になり、横になっていることが多くなったおばあちゃんに水を運んでやると、おばあちゃんは少し顔を緩めてありがとうと小さな声で呟いた。するとその時、壁の向こうでジリリリリとけたたましい音が鳴り響いた。そして気づいた時にはもう、おばあちゃんは立ち上がり、よろよろとその方向へ向けて歩き出していた。おばあちゃんがその扉を開けると、そこにある縁側の庭の中で、一匹のセミが思う存分にその羽を打ち鳴らし、飛び回り、懸命にその声を張り上げていた。それはまるで自分の存在を私達に知らしめているようだった。
「まあ、そういうことだったの」
 おばあちゃんは柔らかい声で、そう呟いた。縁側に駆け寄るおばあちゃんの後ろ姿しか見えなかったが、その声には喜びが満ち溢れていた。

 セミになったおじいちゃんは庭の木に止まり、その声をおばあちゃんに聴かせ続けた。夏になり他のセミの声が景色を埋め尽くしても、おばあちゃんはどの声がおじいちゃんのものか、分かっているらしかった。穏やかな微笑みを浮かべながら、おばあちゃんはいつまでも縁側に腰かけ、その声に耳を澄ませていた。そして数週間後、おじいちゃんは再び去っていった。

 それからまた数週間経ち、おばあちゃんの家に遊びに行くと、おばあちゃんは縁側に腰かけ、横に置かれたケースを眺めていた。その中には小さな光があり、夕暮れの中で、その光はぼんやりとおばあちゃんを照らしていた。おじいちゃんは今度は蛍になったらしい。
「久しぶりに迎えに行けたわ」
「良かった、それじゃあ元気になったんだ」
 ケースを見ると、何故かおじいちゃんはケースの中を激しく飛び回りながら、その身体をケースの壁へと何度も打ちつけていた。
「どうしたんだろう?」
「ここから出してくれって言ってるのよ」
 そう言っておばあちゃんがケースの蓋を外すと、その光はするすると線を描きながら飛び上がり、そのままゆっくりと庭の外へと飛び始めた。
「行きましょう」
 おばあちゃんは私の手を握り、おじいちゃんを追って外へと歩き出した。久しぶりの手の感触は、あの頃と何も変わっていなかった。おばあちゃんの期待や高揚が、その手から伝わり私へと届いた。
 おじいちゃんはそのまま山の中へと入っていった。草木を踏みしめる感触や森の中の匂い、そしておばあちゃんの背中、その全てが私には懐かしかった。
 おじいちゃんの光が突然山道を逸れ、横にあった藪の中へと入っていった。私達も後を追い、そこをかき分け越えると、目の前に現れたのは、一筋の小川の広がりだった。そしてそこには数えきれないほどの蛍が、柔らかな光を纏いながら飛び回っているのだった。それは一面の眩さと言ってもよかった。景色を覆うほどのその光の粒達は、時折波のようになって、その表面に美しい揺らぎすらを見せていた。
「あら、まあ、」
 短い声だけがおばあちゃんの口からは零れていた。ふとその横顔を見ると頬には涙が、目の前にある小川と同じように煌びやかな反射を見せ、流れていた。私達は小川のせせらぎだけを聞きながら、その手を強く握り合い、いつまでもその光景を眺め続けた。

 おばあちゃんはその次の年に亡くなった。穏やかな死だった。葬式の間、私は何度も自分の手の平を見つめ、そして握った。悲しいという言葉では賄いきれないくらいに悲しかったし、少しでも顔に込めた力を緩めれば、涙があふれ出して止まらないことに気づいた。
 葬式が終わり外に出ると、目の前を一羽の白い蝶が通った。そしてその蝶が飛んでいく先には、もう一羽の蝶がいた。二羽の蝶は互いに近づくと、その身体を寄せ合うように飛びまわり始めた。夕陽の光はその白い羽を暖かく輝かせていた。それは仲睦まじく、私はきっといつまでもそうしているのだろうと思った。そしていつまでも、そうしていられるのだと思った。 


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