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ショートショート【言の葉】

 一本の木の下に、私は立っている。
 あれから幾日、幾年が経っても、この木は何も変わっていないようだった。
 この木の下で、私達は幾度も語り合ったり、共に同じ時や経験を過ごしてきた。
 見上げれば揺れる枝や梢が見える。その先に付いた葉が、その度にひらりと一片落ちていく。
 ゆっくりと落ちる木の葉が私の足元まで届き、地に付き、その瞬間私はその葉から響く音を聞いた。その音は声だった。いつか二人で交わした会話の、一片だった。
 私達の声を聞き続けていたのだろうこの木はいつの頃からか、その枝に私達の声を、いわば言の葉をつけてくれたらしい。
 私は少しずつ落ちるその葉を眺め、その声を聞き始める。目を閉じれば、あの頃の景色が広がってくる気がした。

「健さん、またここにいたんですか」
「……なんだお前か。勉強はいいのか」
「こっちの台詞ですよ。ついていけなくなっても知りませんよ」
「別に男は勉強なんざ出来なくてもどうにでもなる」

 それはまだ出会っていくらも経っていない頃の声だった。互いにどこかぎこちない会話が続く。今思えば、きっと初めからある程度の思いはあって、ただそれを素直に形にすることが恥ずかしかったのだろう。まともに目も合わせず会話をしていたことなんかを思い出す。
 だがこの木の下に行けば、会うことが出来た。

「今日聞きました?三丁目の旭さん、寝坊して寝巻のままやって来たって」
「それはわからん。今日はずっとここで寝てた」
「なんとか朝の会には間に合ったらしいですけど、先生に叱られて、もう一度家に戻ったって」
「それでまたおっかあにでも怒られてか。お転婆が過ぎるな」
「ほんとに。けど旭さんいっつも明るくて、優しくて、話してるとなんだかこっちまで元気になるんです。羨ましい」
「そんなこと別に羨まなくてもいいだろうに」
「いっつものらりくらりとしてる健さんにはきっと分からないでしょうけど、……だって、明るくて気立ての良い人には憧れちゃうじゃありませんか」
「……お前だってそうだろう」
「え?」
「なんていうか、その、お前だってこうして話してりゃ、こっちが、なんだ、明るい気分にもなってくるだろう」
「え、あの、それってどういう」
「いや、いい!やめだやめだこんな話。とにかくそんなつまらんことで一々悩んでたらキリが無い」

 その会話のほとんどはつまらない、風が吹けば飛んでいってしまうようなものだった。だが時折は、私達の心が少しだけ近づくような、そんな会話があったのだと、今になってようやく気づいた。

「健さん私ね、この前初めてこまで遊んだんです。弟と一緒にね。けどあれってば随分難しいものですね。全然回ってくれない」
「まだ下手くそなだけだろうさ。いいか?こうやって先っちょをしっかり押さえて、出来るだけ強く紐を巻かなくちゃなんだ。これで全部決まっちまうといってもいい」
「詳しいんですね」
「あったりめえだろ。おらぁな、これでも町内のこま名人で通ってんだ。誰にも負けたことねぇ」
「あらまあ、負けたことなんて嘘」
「嘘じゃあねえほんとだってのに」

 くだらない会話、つまらない言い争い。だけどそれがその時間が、私には楽しくてたまらなかった。
 もしもあの頃に戻れるなら、私は何だって捨てることが出来るだろう。せめてもう一度あなたに会いたかった。

「健さん私ね、お見合い、するんだって」
「……そうか」
「なんていうか、とっても変な気しないかしら。だってまだ顔も見たことないような人と、きっと、たった数回顔を合わせただけで、それから一生、一緒に暮らすんですもの」
「だけんどお前のおっかあとおっとおが、探しまわって見つけてきたんだろ?どうせ良い相手に決まってらあ。しっかり金を稼いでよ。辛いばっかで金も稼げねえ仕事始めた俺なんかより、よっぽど羨ましい暮らしだ」
「……ねえ健さん、私ね、」
「言うな。それ以上言うな」

 その時の沈黙の音すら、聞こえた気がした。あの時の私達はそれから、言葉も交わさずに、そのままこの木の下を互いに立ち去ったのだった。それからこの木の下で定期的に会うという、どちらが決めたわけでもない約束は、破れた。

「はあ、はあ、おい大丈夫か。随分走ったなあ」
「はぁっ、はあっ、はぁ、……ですね」

 私達は顔を見合わせると笑った。見合いも進み、いよいよ婚姻も確定するとなった時分、突然に飛び込んできた男が、女をさらっていったというような事態を、私達はつい直前にしでかしてきたばかりだった。
 息を切らし、私達はただ笑った。この先に待っているのはろくな未来では無かった。だが私達はこの木の下で、幸せを噛みしめているのは、確かだった。

「こっからどうなるかはわかんねえぞ」
「分かってます。覚悟だって、してます」
「俺のとこについてきたって、辛いばっかりだきっと。金はねえし、ひもじいぞ。それにこれからまた戦争だって、始まるかもしれねえときてる」
「分かってます。分かってます。けど私だって、健さんあなたと、」
「待て言うな。俺から言わせろ。……愛してる」

 私達は互いの両親と、ほとんど絶縁状態に陥った。だがそれから始まった二人だけの日々は、そんな苦しみなど上から塗りつぶしてしまうほどに、幸せな時間だった。一瞬に過ぎ去る、ほんの束の間のことではあったが。

「……行かないでって言ったら、怒りますか?」
「こればっかりはなんとも言えねえだろう。けど呼ばれちまったんだ。赤紙が来たんだ。行くしかねえだろ。なあ、お前には一つだけ言っとくぞ。死ぬなよ」
「こっちの台詞ですよ。お願いだから、生きて」
「あたりめえだろ。必ず帰ってくる。それもすぐにだよ」

 だがそれを最後に、私達はもう二度と、会うことはなかった。

「もう嫌になっちゃう。戦争って、嫌ね」

 夜ごとに木の下でうずくまり呟く、ひとりぼっちの声だけが言の葉から響いた。

「見て、もう指なんかボロボロよ。朝から晩まで働きっぱなしなんだもん。それに誰も、私なんかに構ってくれない。だって私には健さんしかいないんだもん。仕方ないわよ、それでいいのよ。……もう帰ってきて、お願い」

「みんないじわるばっかり。何が楽しいのかしら。ああお腹減ったわ、だってわたしだけもらえるお米が少ないんだもん。旭さんたちもひどいことするわ、みんなでよってたかって、私のこといじめるんだもん。わたしだけ二時間も多く働かされてる。もう眠いわ、このまま寝てしまおうかしら」

 見合いの一件から私達は町内からほとんどつまはじきになったも同然の状態だった。そしてその声は一人になり、話す相手すらいなくなったもののすがる、細く弱い声だ。

 そしてすすり泣く声が響く。いつまでも泣いている音、少し後に嗚咽、だが空っぽの胃の中からは、何も出てこない。

「……ひどい、ひどいわ、旭さん、なんてこと言うの、かしら。……死んだ?誰が?健さんが?アメリカの兵隊に、撃た、れた、そんな話を聞いたわって、……信じない。死んでなんか、いない。だって、だって、健さん、言ったもの、帰ってくるって、必ず帰ってくるって、すぐにって、」

 崩れ落ちるような音が響く。私達は会えなかった。戦争はまだ終わらなかった。

「待つわ、待つのよ」

 それからしばらく言の葉は途切れる。おそらくそれから木の下にやって来ることが無くなったのだろう

「……終わった。終わったって!戦争が、終わったって!帰ってくる!健さんが、今すぐにでも帰ってくるわ!」

「今日二丁目の林さんが帰ってきたの!みんな泣いてた!健さんはいつかしら!明日かしら、明後日かしら!」

「もう生きてる人はほとんど帰ってきたって!あとはもう健さんだけよ!きっと明日ね!明日!」

 喜びに満ちる声は続いた。だがまだ帰っては来ない。次第にその声は小さくなった。さらにはその声には不気味な咳の音が、よく混じるようになった。そしてまた言の葉はしばらく途切れる。

「……健さん、ごめんなさいね。わたし、わたしね、病気になったって。健さんのこと元気で迎えなくちゃいけないのに、病気だって。……結核、だって」

 それから言の葉は声を響かせ続ける。結核を抱え、夫の帰りを待つ、少しずつ弱っていく妻の声を。
 彼女はいつまでも夫を待ち続けた。声はついにはほとんど聞こえなくなる。風にも負けてしまうようになる。
 夫は帰ってこなかった。いつまで待っても、帰ってこなかった。

「健さん、あのね、……愛してる」

 それが最後の言の葉だった。木を見上げるとそこにはもう、木の葉一つ無い、枝だけがあった。

 戦争が終わり、すぐに帰れると思った私であったが、つまらぬいざこざに首を突っ込んでしまい、東京でしばらく時間を使わなければならぬこととなった。
 空襲が私の町を襲ったという話は聞かなかったし、妻に向けて手紙もいくつか送っていたから、そのいざこざを片付けた後すぐに帰ろうと、もう少しだけの辛抱だと思っていた。
 だがその手紙が妻のもとに届くことはなかったらしい。それは私達をいじめる町の人間の、悪意に満ちた嫌がらせの一つだった。私は妻からの返信が一つも無かったことを、もっと深刻に捉えるべきだった。
 そして思ったよりも時間がかかったいざこざが終わり、ようやく町へと足を踏み入れた時、既にもう妻はいなかった。結核でつい先日死んだと、そう告げられた。

 そして逃げ出すように町を去り、しばらくの時が流れ、私はこうして再びこの町を訪れたのだった。
 虫の知らせというか、この木に呼ばれたのかもしれなかった。現にこの木は何一つあの頃から、変わっていなかった。

 言の葉をすべて聞いた私はまた上を見る。そしていつまでも、私から溢れ出ていくものは、止まりそうになかった。



続いてはこちらをぜひ。

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