ショートショート「墨と筆と命」

 なにぶん幼い時分から体が弱かったものですから、わたくしは絵ばかり描いておりました。そして自分の描いた絵が生命を持ち、動き出すことに気づいたのは、いつの頃からだったでしょうか。
 そんな私のことを気持ち悪いと罵る親兄弟の顔はよく覚えておりますから、その記憶から手繰り寄せても少なくとも五つか六つくらいの頃からではないかと思います。
 わたくしは半ば捨てられるように、山奥に小屋一つを与えられ、申し訳程度の筆と墨と共にそこに置かれました。一人きりの生活ではありましたが、わたくしにはこの通り絵というものがありましたから寂しくなどありません。山の木々や植物、虫に動物たちなど、その手本となるものも有り余るほどにありました。一人きりと言いましても、わたくしには大勢の兄弟の中でただ一人だけ、心の優しい兄がおりましたから、彼が時折食料を届けてくれたり、大量の紙と墨を届けてくれるのでした。わたくしはそのお礼にとよく兄のために春の風に揺蕩うたんぽぽの綿毛の絵なんかを描いたものです。それは紙の中でどこまでも遠く流されていきました。
 ある時、書く紙が尽きたことがございました。絵を描くことはわたくしにとって、もはや心臓の鼓動と等しいことでございましたから、困ったわたくしは住んでいた小屋の内側の壁に、描き始めたのです。正直申しまして、そのような大きな場所に絵を描くことなど生まれて初めてでありましたから、わたくしは筆を動かしながら、胸が破裂してしまうほどの興奮を覚えていたのです。しかしそこに甘え、大きな木々などを描いてしまえば、一瞬にして描ける場所が無くなってしまうでしょう。次にいつ兄が紙を届けてくれるかも分かりません。そのため私は小さな鳥や鼠などの動物たちを、時間も忘れひたすらに描き続けるのでした。
 そして次に自分の意識を筆の先から取り戻したとき、ふと顔を上げるとそこにはもう余白というものが残っておりませんでした。夥しい数となった小動物たちは好き勝手に蠢き、それは壁を覆う影のような、いや死骸に群がる蟲のようで、そしてその光景を、兄は見てしまったのでした。彼は真っ暗になった小屋に入った途端に、悲鳴をあげて腰を抜かし、逃げ出してしまいました。それからは正真正銘、わたくしは一人になりました。
 とはいえその頃には既にある程度の年齢には達しておりましたから、自分一人が生きていくために必要な食事くらいは、この森の中で見繕うことが出来ました。幸いにも近くには小川も流れておりました。
 問題は新しい紙を届けてくれる兄がいなくなったということでしたが、それもすぐに解決しました。わたくしは既に埋め尽くされてしまった壁の端に僅かな隙間が出来るのを待ち構え、そこに小さな、小さな火を描いたのでした。その火はたちまちに近くを走る鼠に燃え移り、狂ったように走り出すその体に触れたまた別の鼠や鳥へと、燃え広がっていきます。小屋の中は彼らのけたたましい悲鳴に満たされ、あっという間に火は炎となって壁の全てを飲み込んでしまいました。そして燃やせるうものを失った炎は、少しずつその勢いを失い、縮小し、消え去り、後には再びまっさらな壁が残りました。後はそれを繰り返せば永遠に絵が描けたのでございます。
 墨もすぐに尽きましたが、わたくしはいつしか墨など結局はどうだってよいのだということに気づくと、後は適当な土や糞、木の実の汁などを水に溶かし、それを使って描いておりました。

 そして十二か三を越えた頃でしょうか、わたくしは旅すがら偶然にこの小屋を見つけた殿様と出会ったのです。殿様は何人かの家来を引き連れ、馬に乗ってやってきました。丁度その時のわたくしは、熊や虎を戦わせることに熱中しておりましたから、壁にはわたくしが描いた虎が、四方の壁をぐるぐると駆け回っているのでした。それを見た殿様はわたくしの肩を掴むと、この絵を始め、わたくしの生活やこれまでの生涯のその全てを、一生懸命に聞きだすのでした。わたくしも取り立てて隠す必要もございませんから、親に捨てられ、ここで一人ひたすらに絵を描いていることなどをお話いたしました。そして殿様は私の肩を強く握りしめると、「それは大変苦労なされたものじゃ。おぬしをわしの城で引き取ろう」と言うのでした。

 城での生活はそれはそれは幸せなものであったと言えるでしょう。なにしろわたくしには望んだだけの筆や紙や墨が与えられたのですから。そしてなによりも、食料を手に入れるために森を漁る時間が無くなったのが最も大きいやもしれません。自分の生命を保つことも気にせず、より一層にただただ絵を描いていれば良いのですから。
 私の描いた絵は城内の者達に回され、随分と愉しんでもらえたようでございます。城の中を歩くと声をかけられ、恥ずかしいやら嬉しいやらなにやら覚えたことのない感情を覚えたものです。特に殿様はわたくしのことを褒め称え、わたくしは殿様のために屏風や掛け軸に虎や龍などを描くようにもなりました。
 
 殿様は野心というものが無いようでございました。森の中だけで生きていた私には理解しがたいことでもありましたが、なにぶん世の中は殺し殺されが全ての理となっていたようでございまして、特に殿様の側近であった牛光という男は、よく殿様に強い失跡の言葉をぶつけていたように思います。だがその度に殿様はそんな言葉をかわしてしまい、にこやかな表情でわたくしの描いた屏風をいつまでも眺めているのでした。そしてその牛光という男だけは廊下ですれ違う際も、わたくしに向かい冷たい目を浴びせたものです。
 殿様はことある度に、「お前は随分と窮屈な思いをしてきたゆえの、ここでは思う存分に描くがいい」ということをおっしゃりました。そして遂には殿様は、城の壁や天井にすら絵を描くことをわたくしに許したものでありました。わたくしが猿やうさぎなどをそこに描きますと、それらは好き勝手に飛び跳ね、城内は明るい声で満たされるのでした。餌を食べている姿が見たいと言われれば広間の壁に大きなりんごの木を描きあげ、そこに群がりだす動物たちをみなで眺め、愉しみました。さらには門の横の外壁に、長い龍を描くと、その龍はそこから天守閣まで一気に飛び上がりました。
 
 そして殿様が殺されたのは、そんな生活の最中のことでございました。
 一晩にして城内は大騒ぎとなりました。悲鳴や鳴き声、そして剣呑な低い声にも満たされ、またわたくしも同じように、筆すら持てない悲しみに包まれました。殿様は寝込みを襲われたとのことでした。そして誰が手を下したのか、それは誰にも分からないようでありました。しかしわたくしは見てしまったのでした。人気の無い城の裏でほくそえむ、牛光の顔を。
 わたくしはその顔を見て確信を抱きましたが、だがあの男が本当にやったと、果たして誰が証明できることでしょう。ましてや一介の絵描きに過ぎないこのわたくしが。
 わたくしの言葉になど力はございません。しかしわたくしには筆があったのです。

 わたくしは紙の前に立ち、筆を持つと、目を閉じて子細に殿様の顔を思い浮かべ始めました。こんなわたくしにこのような豊かな生活を授けてくれた殿様の、あの柔らかな笑顔とその皺の線の全てを。瞼の形、鼻筋の角度や唇の厚さ、そこに現れる微細な影までも、わたくしはいつまでも時間をかけゆっくりと、その正確な姿形の全てを頭の中に描くと、それをただ紙の上に写し取るように、一筆、また一筆と、わたくしの意識をそこに全て注ぎ込んでいくのでした。
 そして朝の陽が部屋に射し入り始めた頃、目の前には殿様が現れていました。
 あとは城の者たちを集め、殿様をその前に差し出せばいいだけでありました。ゆっくりと口を開いた殿様は、みなに先立つ不孝を謝り、そして自分を殺した者の名前を呟いたのでした。
 そしてすぐに牛光は捕らえられ、話によればそれから凄惨な拷問を受けた後、殺されてしまったようであります。

 それから数日が経ち、部屋で一人殿様と向かい合っていると、殿様はこのようなことをおっしゃるのでした。
「お前には本当に、申し訳ない事をしたと今更に気づいた。きっとこの先空いたわしの座を巡り、さらに酷いことが起こるだろうと思うのじゃ。そしておそらくはお前も、そんな者達からすれば随分と邪魔に見えてしまうのだろう。お前は、あのまま森の中でひたすらに絵を描いておるのが、一番の幸せだったに決まっておる。それなのにわしは、お前のその不思議な力を近くで眺めていたかったばかりに、こうしてお前の命までを失わせてしまう。本当に申し訳ない。謝っても済むことではないが、どうか、どうか許してほしい」
 そしてその晩わたくしは、何者かに斬られ命を落としました。

 しかし、何も気にすることはありません。殿様を描き終え、牛光が捕まった日、その晩のうちにわたくしは、もう一枚の絵を描き上げていたのです。それは何を隠そう、このわたくし自身を描いたものでした。わたくしは紙の中に自らを、共に筆を、そして墨が永遠に湧き出る泉を描いたのでした。
 わたくしはその絵を城の脇に置かれた小さな古小屋の隅に隠しておきました。そのためにこうして今もわたくしはこの絵の中で動くことが出来、好きなだけ絵を描くことが出来るのであります。
 殿様、何一つ心配することはございません。わたくしはどこであろうと、絵を描くことが出来ていれば幸せなのでございます。たとえそれが絵の中であろうと。そしてこの城の中での生活は、何一つ不満の無い幸せなものでございました。殿様には、感謝してもしきれぬのでございます。
 ただ一つだけ残念なことがあるとすれば、わたくしはこの絵の中で、これ以上歳を取ることは無いわけでございますから、いつかお話していた二人で酒を酌み交わすという約束は、果たせそうに無いということでございます。
 

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