ショートショート「さよならエンディングノート」

 真下には一本の川が流れており、高さのためにそれは本来よりも随分と細く見えた。川を包むように山肌は広がり、風に揺れる川の水面と共にそれらは、陽射しに煌めき、鮮やかな景色を私に魅せていた。
「飛びますか?ほんとに大丈夫ですか!?」
 若い係員は心配そうな表情を私に向ける。私はそこまで年老いて見えるのだろうか。まあ確かに大丈夫ではないが。
「いや飛ぶ。飛ばなくちゃならん」
「……じゃあいきます!5!4!3!」
 係員のカウントダウンと共に私は飛び降りた。強烈な風が私を襲い、視界が激しく揺れ動きながら、細かったはずの川の水面は勢いよく、私の視界の中で広がっていき、私はこのまま叩きつけられて死ぬのだと思った。だがその水面の少し上で落下は止まり、次の瞬間には腰にしっかりと括りつけられたゴムによって再び飛び上がるのだった。
 私の体はしばらく揺らされ、宙ぶらりんになる頃にようやくその景色を眺める余裕が出てきた。私は体から伸びるゴムにしっかりとつかまりながら、艶やかに流れるその水面や、頬を撫でる風が帯びる芳醇な山の匂いを味わうことが出来た。
「……だがなぜわざわざ一人で、こんなことをしなきゃならんのだ」
 係員に引き上げられながら、山の上を悠々と飛ぶつがいの鳥を見つけ、羨ましいと思った。気を使ったらしい係員は手に水を持っており私に渡した。
 
 近くにあった喫茶店に入ると、私はノートを広げ、「バンジージャンプを飛ぶ」という項目に上から線を引いた。それは所謂エンディングノートというやつだった。通常のエンディングノートには、自分が死んだ際の遺言や自分の情報などを書き連ねていくものらしいが、このノートには単に死ぬまでにやり遂げたいことが様々に書かれていた。バンジージャンプに始まり、昔行った神社にもう一度行きたいこと、思い出のレストランでもう一度オムライスを食べたいことなど、種々雑多なことが箇条書きにされていた。そして私は死ぬ前にこのノートに書かれたことを全て実行しようと、こうして遠出しているのだった。
 コーヒーを飲み、無愛想な私は黙って喫茶店を出る。だが大事なことを忘れていた私は、再び喫茶店の扉を開けて顔を出すと、「ご馳走様でした。ありがとう」と店員に向かって呟いた。ノートには「お世話になった人にお礼を伝えること」とも書いてあった。

 電車に乗り込み、次の目的地である神社を目指した。窓から懐かしい景色を眺めても、やはり以前のような楽しいという感情は湧いてこなかった。しかしそれも今更始まったことでは無かった。ノートに書かれた項目はもうほとんど行った後で、この旅は最後のいくつかを埋めるためのものだった。
 
 電車を降り、神社まではいくらかの距離があったが、まだ私は足腰がしっかりしていたために特に苦では無かった。これでは私が死ぬなど、いつになるか分からないと思う。緑豊かな景色に囲まれた道で清々しい空気を吸いながら、私は黙々と歩いた。
 神社に着いても、僅かな懐かしさを覚えるばかりで、後は何も感じないのだった。石畳の上を歩きながら、ベンチを見つけ座ると、膝の上でノートを開き、「昔行った神社にもう一度行きたい」という欄に線を引いた。これで後は残り二つとなった。このまましばらく時間を潰した後、オムライスを食べに行き、またその項目を終わらせようと思った。
 神社を歩きながら、気を抜くと誰もいない隣に向かって口を開きそうになっている自分に気づく。今日はこうしてやりたくもないバンジージャンプも飛んだ。この前はサーフィンだってやったし、若い頃に行ったばかりの遊園地にも行った。だがどれだけ大変な目にあったとしても、それを話し、共有する相手がいないのだった。空虚な空に向かってただボールを投げているようだと思った。時々私は何をしているのだろうという気にもなった。だがこのエンディングノートは、最後までやり遂げておきたかった。これ以上後悔したくはなかった。
 
 懐かしい木の匂いがした。その店に一歩踏み入れた途端、四十年も昔のことが目の前にありありと浮かんでくるのだった。この店は、驚くほど変わっていなかった。
「ええと、お二人様ですかね?」
「いや、一人です」
 狭い店には今でもシェフが一人いるだけのようだった。そして私はその顔を見てまた驚いた。やはり四十年という分だけ歳をとっているものの、彼は前回私が訪れた時にいたシェフに違いなかったからだ。
「オムライスは、あるでしょうか?」
「はい、勿論ございますよ」
「……ではそれをお願いします」
 店には私の他に客はいなかった。店内にはシェフがフライパンを振る音だけが響く。私はあの日と同じ席に座っていた。机を見つめ、ただじっと待っていると、皿に盛られたオムライスが私の目の前に差し出された。それは柔らかに黄色の楕円を描き、あの日食べたオムライスと寸分たがわぬ姿形を成して私の前に現れたのだった。時の流れと共に朧げに成りゆく記憶の断片が、明確な実像を取り戻したように思えた。
 銀色のスプーンの先をその中に差し込んだ。オムライスはわずかばかりの弾力を見せ、スプーンの先はストンと黄色を割いて中に入り、そのまま皿にぶつかり音を鳴らす。中からは温かなケチャップライスが顔を見せた。私はそれらをスプーンに乗せると、ゆっくりと口に運んだ。
 舌に触れた卵は甘みを与えてくれ、ケチャップライスは口の中でほどけていきながらその味を全体に広げていく。それも私の記憶の底に揺蕩うあの味に違いは無かった。私はそのままスプーンを動かし続けた。そしてその傍らでノートを開くと、「もう一度あのオムライスを食べる」という欄に線を引いた。
「とても、美味しいです」
「変わってないでしょう?」
「……覚えて?」
「不思議なもんです。あなたの顔を見た瞬間に思い出しました。今日は奥様は?」

 ここは私と家内がまだ結婚もしていない時、小旅行に神社を訪れた帰り道、ふらりと立ち寄った店なのだった。あの日私達は二人で、同じオムライスをそれぞれ注文した。
「とても美味しいですね、これ」
「ああ、そうだな」
 思えば随分と無口な私に、よくついてきてくれたものだと思う。ろくに笑顔も見せない無愛想な私を補うように、彼女はいつだって笑顔で、無邪気に話しているのだった。その日もオムライスを口に運びながら、その日の旅路や訪れた神社や土産屋の話を楽しげにし続けていた。
「その、なんだ、」
「なんですか?」
「あの、そろそろだな、」
「え?」
「……結婚を、しないか?」
「それは、プロポーズというやつですか?」
 彼女は見開いたその目で私を見つめていた。私はゆっくりと頷いた。
「はい」
 そう言うと彼女はまた笑顔を見せた。

「家内は、……亡くなりました」
「……そうですか」
 彼女は先日、病気のために亡くなった。年齢を考えればまだ早い死だった。病室で弱っていく彼女の手を、私はただ握っていることしか出来なかった。
 私が今開いているこのエンディングノートは、亡くなる前に彼女が書いたものだった。彼女は随分と痩せてしまった腕でペンを握っていた。その顔は変わらぬ笑顔のまま、楽しそうにそれを書いているのだった。
「私ね、一度でいいからサーフィンとかしてみたかったんですよ。あ、あと、バンジージャンプ?あれもしてみたいんです」
「おっかないだけだろう、あんなの」
「昔二人で行った遊園地も行きたいですね。まだあるのかしら。それにまた二人で旅行にも行きたいです。覚えてますか?まだ結婚もしていない時に、電車に揺られて、神社に行って、」
「覚えてるよ」
「その後レストランに行きましたよね。オムライス、とっても美味しかった。それでプロポーズも、されたんですよね」
 彼女は笑った。彼女はいつだって笑っていた。

 彼女は亡くなり、私にはこのノートだけが残った。私を飲み込もうとする虚無の中で、私は半ばすがるようにそのノートを開き、眺め続けていた。そして彼女がやり残したこれらを、せめて私が終わらせようと思った。

「そんなノートなんです。これは」
「なるほど」
「けどね、もう、だめなんですよ」

 ノートを開き、最後の行を眺める。そこには「二人で旅行に行く」と、そう書かれていた。

「どれだけ楽しくなくたって、つらくたって、やるせなくたって、歯を食いしばればいくらでも旅行には行けます。けどね、けど、もう二人では、行けないんですよ」

 それは初めから分かりきったことだった。その一文から目を背け他を埋めていったところで、最後にはその文が残る。たとえ一人で旅行に出かけたとしても、その新鮮な景色を前に、私はきっとあるべき新鮮さを抱けることは無いだろう。「二人で旅行に行く」という文の、「旅行に行く」という言葉がただ消えるだけで、それは「二人で」という言葉の輪郭をより一層くっきりと太くしていくだけだった。
 だが私はそのノートを一つずつ埋めた。どこかで何かが起こる気がして、救われる気がして。そして何も起こらなかった。

 私はスプーンから手を離し、ペンを握るとその最後の行の下に続けて、文字を書きなぐり始めた。また二人で散歩をしよう、また二人でお茶を飲みながらテレビを見よう、ほとんどお前が話しているばかりだったけど、また二人で話そう、それでああでもないこうでもないと、二人でくだらない喧嘩をしよう、そして二人でどこへでも行こう、今度はめんどくさい顔をしない、約束する、だからあともう一度だけ二人で、二人で、二人で、
 ノートの上に落ちる滴がその文字達を滲ませた。どれだけ、どれだけ書いても、もう妻はいないのだった。だが私にはまだ妻とやりたいことがいくらでもあった。そして謝りたいことだっていくらでもあった。感謝したいことだって、それ以上にあった。
 手を動かせば動かすだけ、その上には「二人で」という言葉が止めども無く増えていく。またオムライスを口に運んだ。味はもう分からなかった。

 

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