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ショートショート『列車』

 線路を噛む車輪の音に目を覚ますと、そこは列車の中だった。手には矢印だけが書かれた切符が握られており、だが私がどこから来、そしてどこへ向かっているのかはわからなかった。車内には私の他に誰もいなかった。
 旅をするのは昔から好きだった。結婚してからも子供が産まれるまでは、妻と共にこうして列車に揺られ、様々な場所へ赴いたものだ。子供が一人立ちし、また夫婦二人きりとなった折にはそんな旅をもう一度と話していたものだが、悠長に過ごしている内に気づけば歳を取り、そして妻は先立ってしまった。せめてあと一度くらい、二人で旅に出かければよかったというのは、私の唯一の後悔だろう。
 窓の外にはどこか見覚えのある風景が広がっていた。はたしてそれはどこだったか、思い出そうとするうちに列車はトンネルへと入る。
 そしてトンネルを抜けると列車は、海の上を走っていた。
 降り注ぐ陽の光は波の起伏をきらびやかに輝かせ、乱反射するそれは私の目を眩ませるほどだった。窓を開けると潮の匂いが鼻の奥を突く。下を覗くと、線路も引かずに列車は海の上を走り、車輪が立てる飛沫が私の顔を濡らした。
 遠くで魚が跳ねる。一匹、また一匹と数を増していくそれらは気づけば大群となり、列車と並走し、どこかへと向かう。だがその時突然、海面から巨大な黒い塊が噴出し、私の視界のほとんどを覆った。
 それはクジラだった。その巨体を飛び上がらせたクジラは、再び海へと飛び込み、ほとんど波のような飛沫をあげる。急いで窓を閉めると、それは勢いよく窓へとぶつかり、激しい水音を立てた。
 列車は再びトンネルへと入る。
 そして私は思い出す。元々島育ちだった私は、高校卒業と同時に船に乗り、本土へと向かったのだった。期待と共に、とても無視することの出来ない不安を抱えた私の前に現れたのも、クジラだったのだ。クジラの立てた強烈な飛沫は私の顔を濡らすと同時に、私の不安も何もかもを薙ぎ払ってくれたのだった。

 トンネルを抜けると今度は窓の外に、夕陽に照らされた屋台の群れが立ち並んでいた。夏祭りだろう。活気に満ちた出店と人々。窓を開けると焼けたソースの匂いが車内に入り込んでくる。
 そういえば妻と初めて会ったのも、こんな夏祭りだった。

 島を出て働きだした私は、職場の先輩に誘われ、祭に来たのだった。そして大きな祭も初めてだった私は、すぐに周囲に立ち並ぶ屋台や人々のその輝かしさに目を奪われ、先輩とはぐれてしまった。
 祭を眺めながら歩いてみるといつか屋台の外れへと辿り着き、そこにあった神社の階段に、浴衣姿の女の子が一人座っていた。どうやら履物の鼻緒が切れてしまったらしかった。
「直しましょうか?」
 気づけば話しかけてしまっていた。顔を上げた彼女を見ると、私はそれまでに見てきた華美な祭景色が全て背景に過ぎなかったのだと思った。今思い返せばそれは恋をしたことに違いなかった。
「すみません、切れてしまって」
「それなら直せると思います」
 私は緊張で手を震わせながら、必死に彼女の鼻緒を直した。
「では、」
「待って!」
 立ち去ろうとする私の肩を彼女は掴んだ。電流に近いものが全身を流れた。
「何かお礼を」
「いや、そんな大したことは、」
 一度決めたら頑固な性格は出会った時から変わらなかった。私が近くの屋台を指さすと、彼女はすぐにそこへ向かい走った。
 その後も列車は走り、窓の外の景色を移ろわせ続けた。桜並木に、大きな神社の石畳の上、はたまた新婚旅行で行った外国のレンガで彩られた街並みなど、そのどれもが美しく、かつ私の思い出の、妻と訪れた景色ばかりだった。


 列車はなだらかに、今度は夕暮れの町を走る。
その時車両の前方から誰かが歩いてくる。それは紛れもない、妻の姿だった。
「どうですか、この景色は」
「なんだかこの景色が一番、しっくりくる気がするんだ」
 今窓の外に見えているのは、私と妻が共に幾重もの生活を積み重ねた近所の景色だった。
「また二人で歩きたいものだね」
「いつだって付き合いますよ」
 隣に座った妻は、私の手の上に手を重ねた。目に映る妻の顔は、次第に滲んでいく。それを止めることなど出来なかった。ただ私は、手の上に感じる妻の体温を、少しもこぼさずに受け入れることだけに意識をやった。
「そろそろ着きますよ」
 妻はそう言った。いつだって妻の声は、私の頭を撫でるように優しく、私に染み渡る。

 目を覚ますと、病室のベッドの上だった。私の手には切符が握られていた。
 私は全てを思い出した。病に侵され、もう長くないと悟った私は、過去の思い出をもう一度旅することが出来るという切符を買ったのだった。
 私はもう、これを最後に死んでしまおうと思っていた。だが列車が最後に辿り着いた場所は、まだ決して終着駅などではなかった。
「もう少しだけ、歩いてみようか」
 窓の外を見上げると、夕陽に照らされた薄雲がどこまでも広がっていた。どこか遠くで、甲高い汽笛の音が響いた。

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