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ショートショート『亡くなった妻の悪魔のレシピ』

 妻は魔女だったのかもしれなかった。そして彼女は俺に黒魔術をかけていたのかもしれなかった。

 ようやく遺品の整理を始めることが出来た頃には、妻の死から既に一年が経っていた。それは一瞬とも、永遠とも思える一年だった。妻との別離による悲しみは時間と共に薄れてくれるどころか、むしろそれは日に日に濃く、重く、苦しくなっていくばかりの気がした。だから遺品の整理に手を付け始めたのも、家の中に残ったあと僅かな妻の名残を、少しでも感じておきたかったからかもしれない。
 妻の本棚で一冊のノートを見つけた。
 それをパラパラと開いてみると、最初の数ページだけ書かれて後は白紙だった。恐らくは飽き性だった妻のいつものパターンだろうと俺は思ったが、唯一書かれたその数ページの一枚目、その上部に書かれた文字に俺は手を止めた。
 そこには「悪魔のレシピ」なるタイトルが書かれていた。
 その下には、妻の得意料理であったエビグラタンの作り方が詳細に記されていた。
 これまで何度も作ってもらい、食べさせてもらった彼女のエビグラタン。それこそ俺と妻がまだ付き合ってすらいない状況だったあの時も、彼女が作ってくれたのはこのエビグラタンだった。彼女の家に招かれ、緊張しながら待っている俺の前にやってきた笑顔の彼女と出来立てのエビグラタン。
 それを食べながら俺はたしか告白をしたのではなかったか。
「こんな美味いもの美紅が作れるなんて、全然知らなかった」
「まぁね。けど別にただのエビグラタンだよ」
「いや、これだったら毎日食べれる。……あのさ、よかったら俺にこれ毎日作ってくれない?」
 それは告白?と彼女は笑った。俺は自分の口から出た思わぬ自分の言葉に戸惑いながらも、「まぁそんな感じのこと」と冗談交じりに誤魔化すように、それでいて念押しするように彼女の目を見つめながら呟いた。彼女はその笑顔をさらににっこりと表情を緩ませ、「じゃあまぁはい、喜んで」とまた笑った。
 今思うと、凄まじく不格好かつ厚かましい告白の形だったとは思うし、後で妻も同じようなことを言っていた。
 けれど元々異性として気になっていた妻のことを、しっかりと意識し、下手な告白まで踏み切らせたのはあのエビグラタンに他ならなかった。あれを食べながら俺はふと、目の前に座るこの人といつまでも一緒にいたいと思ったのだった。
 やはりそんなエビグラタンと「悪魔のレシピ」という言葉が結びつくとは思えなかった。
 あの時の感情が全て、悪魔のレシピなるものの力だったとでもいうのだろうか。レシピの終わりには小さな文字でまた、「これを食べた人は、これを作った人のことを好きになる。」という短文が添えられていた。
 信じたくない。信じたくなかった。

「それで私にそのエビグラタン作れって?」
「そう。だってそんなこと、お前くらいにしか頼めないだろ」
「うーん、なんか嫌だな。抵抗あるってか」
 家に佳奈を呼び出し、そのレシピを見せて頼んだが、佳奈の反応はいまいちだった。
 俺と妻と佳奈とは幼馴染の関係性だった。幼少期からずっと三人だった。
「佳奈は聞いたことなかった? 美紅が魔女だって」
「魔女?」
「違うのかな」
「それって悪魔のレシピだから、そんなの知ってる美紅は魔女だってこと?」
「そう。黒魔術的な」
「そんなの聞いたことないよ」
 女同士ということもあって、俺よりも全然佳奈の方が、妻と一緒に多くの時間を過ごしてきたはずだった。そんな佳奈も今まで一切としてそれを感じ取れなかったということは、やはり妻が魔女だったなんてありえない話だろう。それに共にいくらかの夫婦生活を送ってきた俺でさえ、妻から魔女の香りなど微塵も感じ取ることは出来なかった。
 であればこの悪魔のレシピとは一体なんなのだろう。その疑問が薄れてくれる気配も無かった。
「そしたら佳奈に作ってもらって、実際に食べてみるしかないだろ?」
「それ食べてあんたが私のこと好きになったら本物?」
「そうなるね」

 ヤギの角であるとか牛の血であるとか、いかにも悪魔のレシピといった材料を要求されることも無く、そのレシピには至って普通の材料だけしか記されていなかった。
 近所のスーパーで買い揃えた材料がキッチンに並ぶ。俺の頼みを渋り続けていた佳奈だったが、俺がわざわざ用意したそれらを見て、結局諦めたようにレシピを広げ、手を動かし始めてくれた。
「そんな風に見られてたらやりづらいんだけど」
 エビの殻を剥きながら佳奈は俺の方を振り向く。俺は佳奈の背中越しに、その作業とレシピとを照らし合わせていた。
「正確にレシピ通り進んでるか見とかないと」
「ちゃんとそのままにやってるって」
「それは分かってるけどさ」
 手際よく佳奈は料理を進めていく。同時にレシピも徐々にその終わりへと近づいていく。
「あんた、美紅の時もそうやって見てあげたりしてた?」
「……いや、」
 妻の美紅は多分、料理が結構得意な方だった。
 僅かばかりの結婚生活の中で、妻はエビグラタンは勿論、数えきれないほどの料理を俺に作ってくれた。そのどれもには妻の愛情が込められていて、そしてとても美味しかった。
 何か手伝おうかと、時々俺はポーズめいたことを言ってみることがあったが、それも見通していたのか妻は別にいいよと俺に微笑んだ。そして俺はただそれに甘えて、料理は妻に任せきり、自分はただ待っているだけだった。
 たまには一緒にキッチンに立ってみるとか、そんなやり方もあったのかもしれないと、妻が入院してからようやく俺は気づいた。そしてその突然の入院からあっという間に、妻は亡くなった。

「後悔してる?」
 後はエビグラタンが焼き上がるのを待つだけだった。オーブンの前に立つ佳奈が、その沈黙の中に小石を投げ入れるようにふと、俺にそう尋ねた。
「後悔って、何を?」
「色々?」
「色々はそりゃ、してるでしょ。色々。もっと色々したいことはあったし、一緒に行きたいとことか、話したいこととか、それこそ死ぬほどあったよ、あるよ。ちっちゃい頃から一緒にいたはずだけど、そういうのってなんか無限にあるみたいなんだよ。それで、美紅が死んでから、時間が止まったみたいな感覚でさ。仕事から帰って来てさ、ただ待ってたりすることがあるんだよね。美紅がエビグラタン持ってきてくれるとか、思っちゃってるんだよずっと。……そんな中で美紅が魔女かもしれないとかさ、意味わかんないよほんと」

 柔らかな湯気と共に、俺の前にそのエビグラタンを佳奈は置いてくれる。湯気が鼻先に触れると共に感じるその匂いに思い出す。間違いなく、これは妻のエビグラタンの匂いだ。
「……いただきます」
 テーブルの向こうに佳奈も座って俺を見つめている。俺はスプーンでそのエビグラタンを少しすくい、熱を冷ますために何度か息を吹きかける。そして意を決して、ゆっくりとそれを口に運んだ。
「……あぁ、これだ。これだよ、これだと思う」
 紛れもなくあの味だった。妻のエビグラタンと同じそれが、今目の前にあったのだった。
「……好きになった? 私のこと」
 顔を上げると、佳奈がじっと俺の顔を見ていた。その顔を俺もまたじっと見、そして言った。
「やっぱ悪魔のレシピなんて嘘だった。美紅は魔女なんかじゃなかった」
 そっかと佳奈は笑い、バクバクとエビグラタンを食べ続ける俺を見てまた笑った。
「レシピ通りにやれば自分でもそれ作れるよ」
「そっか、これからそうすればいいんだ」
「うん、美紅は病室で一生懸命このレシピ書いてたから」
「え?」
「だから美紅は亡くなるちょっと前にね、これ書いたんだよ」
「……どういうことだよ?」
 佳奈は一つため息をついた後、また口を開く。
「美紅は分かってたんだよ。自分が死んだ後あんたがいつまでも悲しんで前に進めなくて、まさに今みたいな状態になるだろうって。それでこんな変なこと思いついたんだよ」
 理解の追い付かぬ俺を前に、佳奈は話し続ける。
「あんたが自分のこと好きになったこととか、あんたが自分のこと愛してたこととか全部、悪魔のレシピのせいでしたってことになったら、全部偽物でしたってことになったら、そしたら自分のことなんか忘れて、さっさと次の奥さんでも探し始められるだろうって、立ち直れるだろうって」
「待てよ、そんな馬鹿な話、」
「そうだよ、馬鹿だよ。私も美紅のこと馬鹿だよ思うよ。けどそんな馬鹿な話をさ、あんたは信じようとしたんじゃないの? だからこうやって私にわざわざ作らせたんじゃないの?」
 強く否定することが、出来なかった。
 悪魔のレシピが本当であるわけがないと思う一方で、俺は心のどこかでほんの少しだけ、これが本当であればいいと、思ってしまっていたのかもしれない。そうすれば楽になれる気がした。
「……だって苦しいんだよ。慣れないんだよ。いつまで経っても認めたくないんだよ。美紅が死んだって。もう帰ってこないんだって、俺さ、もうどうしていいか分かんないんだよ」
「だからって、その気持ち全部嘘にして捨てちゃだめだよ」
 俺は止まっていた手を再び動かしエビグラタンをすくう。目から零れ落ちたその一滴が丁度その上に着地して、それを口に入れるとやはり味が違った。俺は急いでもう一度すくって口に入れる。しかしそれでもまだ味が違うのだった。そしてそれはきっと最初からで、このエビグラタンは妻の作ったものと限りなく近いものではあれど、決して同じものではなかった。あのエビグラタンは二度と食べられない。もうそれを認めるしかない。
 だがそれでも俺はこれをまた一人でも作り、食べ、その度に絶望するのだろう。いっそノートごとレシピを焼き払った方が楽かもしれない、けどそれは出来ない。俺には絶対に。
 もはや本当にこのレシピは、悪魔のものなのかもしれない。そう思いながら俺は、決して最後とは思えない、目の前のエビグラタンのその最後の一口を口に運んだ。

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