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ショートショート【雲のさがしもの】

 あれは確か、よく晴れた夏の昼間に、突然現れた夕立の後のことだった。
 俺は夕立にさらされた洗濯物を取り込むために出先から急いで戻り、既に湿った服やらタオルやらをベランダから引き上げた。そして物干し竿の端っこに、何やら見覚えの無いものが引っ掛かっていることに気づいた。それは真っ白で、おそるおそる掴んでみると驚くほどにふわふわと柔らかい。持ち上げてみればそれはまたどこまでも軽く、部屋の中心に投げ入れてみると、ふわりと宙に浮かんだ。
 どうやら俺は、雲を拾ったらしかった。

 これはいったいどういうことだろうかと俺は頭をひねった。本来であれば空をふわりふわりと漂っているはずの雲が、どうしてまたうちの物干し竿に引っ掛かってなんかいたのだろう。
 試しにつっついてみても、その雲に特に動きは見られない。窓を大きく開け、そちらにうながしてみても、雲はぴくりとも動かなかった。
「まいったな。おいお前、さっさとあの空に戻っていったらどうだ」
 つい先日同居人が出ていったために随分と広くなった部屋ではあるが、いくらなんでもそこに雲を住まわすなんて無茶である。俺はさっさと雲を追い出してやろうと思った。だがしばらくすると、どうやら様子がおかしいぞと気づきはじめた。
「……お前弱ってるのか」
 確かにその雲はのんきに浮かんでいるように見えるものの、普段空を見上げればそこにいるような、もくりもくりとした力強さはそこにはなく、さらにはその雲はあまりにも低空飛行すぎた。いつまでも床すれすれを浮かんでおり、よく考えれば大きさも一斤の食パンほどしかない。
 俺はパソコンを立ち上げ、ひとまず雲について調べてみることにした。
 調べた結果、雲というものは水蒸気から作られ、微小な水滴や氷の粒が集まったものであるらしいことが分かった。言われてみればそんなことを小学校か中学校で習ったような気もするが、どうだっていいことだ。
 俺はキッチンで水道水をグラスに注ぎ、雲の前に置いてやった。
「ほら水だ。これ食って元気出せ」
 だが雲は変わらず動かない。俺は少し考えた後、部屋の隅にあったじょうろを手に取り、その中にグラスの中の水を移した。
「ほれこれならどうだ」
 じょうろを傾け、水を雲にかけてやる。するとそれを浴びた雲は、ふわりふわりと身体を揺らす。どうやら喜んでいるようだった。
「待ってろ、もっとやるからな」
 それから俺はしばらく、じょうろを使って雲に水を食べさせてやった。雲はゆっくりと膨らむように身体を大きくしていく。元同居人の観葉植物好きには少し呆れていたが、まさかじょうろが役に立つことがあるとは思っていなかった。しかしどうせ出ていくならば、部屋に残る観葉植物たちもきちんと持っていってほしかったものである。
雲は気づけば布団程度の大きさにまでなっている。これだけふわふわの身体だ、上に寝ころべばさぞかし気持ちの良いことだろう。そして俺は再び窓を全開にすると、雲を外へと押し出した。これだけ大きくなればもう十分空へと飛んでいけるはずだ。
 俺の勢いも借りて雲は、一気に青空の中へと飛び立っていった。夕立を終え、既に雲一つない青空のため、真っ白い色をしたその雲は、どこまでもくっきりと見えた。
 元気になることが出来て随分と嬉しいらしく、その雲はしばらく青空中を飛び回っていた。なかなかの大きさだと思っていたその雲も、こうして空と比べてみれば随分と小さい。あの雲はこのままあっという間に空のかなたに消え失せ、二度と見ることはないのだろう。こうして出会えたのもきっと何かの縁ではあるし、どこか遠くで元気でやっているならばそれで十分だ。だがこうやって自分のもとから去っていく姿を見つめているのは、やはりせつないものではあると思う。
 しかし俺の予想に反して、雲はすぐに俺の部屋へと戻ってきたのだった。
「なんだなんだどうした」
 そして雲は部屋の中央にふわりと浮かぶと、その下に軽い小雨を降らせ始めた。
「おい待て、床が濡れるだろ。ちょっと待ておい!」
 俺は急いで雲の下にタオルを敷いた。これでまた洗い直しが増える。
「……今度は泣いてるらしいな」
 どうやら俺は少しずつ、雲の感情が読み取れるようになっているようである。確かに先ほど雲はしばらく空を飛び回り、その後はまるで何かを探すように、ゆっくりゆらゆらと空をさまよっているようであった。だが雲に一体なんの探し物があるというのか。
 目の前で雲は泣き続ける。ゆっくりとではあるが雲の身体は小さくなっているようで、このままではそのうち消えてしまいそうである。
「わかったわかった。俺も探してやるから。なんか探してるんだろ?」
 すると雲はぴたりと泣き止み、俺の顔を見るようにふわりと上に浮きあがる。
「だから背中に乗せろよ。一緒に探しいこう」
 俺は雲の背中にぼふんと飛び乗った。やはり驚くほどに心地よい。雲は柔らかく、そしてあたたかく俺を包み込むようで、このまま顔をうずめ眠ってしまいたい欲望を全力で抑え込む。
 そして俺と雲は大空に向け飛び立った。ひとまずぐんぐんと空に進む雲は、安心したのかどこか誇らしげに飛んでいた。

「うはは、こりゃすごいな」
 雲から少し顔を出すと、下に広がるのはこれまで見たことがないような景色だった。豆のように立ち並んだ建物や鮮やかな山々、そしてその間を流れる細い川などが太陽に照らされ、燦燦と輝いている。そんな景色を、心地よい風を浴びながら眺めているのはとてつもなく贅沢に思えた。
「よし、お前が何を探してんのかはわかんねえけどよ、見つけるのはお前の勘頼りだからな。気になる方にどんどん飛んでみようぜ」
 それから雲はありとあらゆる方向めがけて飛んでいった。そしていくつもの町や山を越えても、中々雲の探し物は見つからないようだった。
 時々雲が疲れた様子を見せると、俺は近くの滝まで飛んでもらい、雲に滝つぼから弾ける飛沫を食べさせた。
「見てみろこれ、お前みたいだぞ」
 滝から放たれる細やかな飛沫は、霧のような姿になってモクモクと立ち昇っており、その様は僅かに雲のようにも見えた。もしかすればこのまま空へと届いたこの飛沫も、雲となって生まれ変わるのかもしれない。
 そして滝の下に座り込む俺の言葉に顔を上げた雲は、その途端にぶるぶると震え始めた。よく見ればまた涙を降らせてもいる。
「おい、これまたどうした、急に泣きだして」
 俺が撫でると、雲は必死にその涙を抑え込むように身体を俺に摺り寄せる。一瞬怖がったのかと思ったがそうではない。どちらかといえばそれは寂しさからくる涙だ。
「なるほど仲間の雲を探してるのか」
 夕立を降らせた後どこかへと飛んでいった雲は、もうどこにも見当たらなかった。そしておおかたこの雲は何かの拍子にはぐれてしまったのだろう。そう考えれば確かにこれまでの雲の様子にも合点がいった。
「安心しろって。それが分かればもう早いぞ。雲ってやつはな、風に乗って動いていくものらしいぞ」
 俺は再び雲の上に飛び乗り、そっと頭を撫でてやる。どうやらこの雲はまだチビ助らしい。どおりで泣き虫なわけだ。

 俺と雲は風の流れに沿って飛んでいった。俺達はこれまで全くの反対方向に飛んでしまっていたらしく、それに気づいて一緒に笑った。
「見ろチビ助。これお前の仲間の切れ端だろ」
 空には時々、千切れたような小さな小さな雲が浮かんでいるようになった。それを見た雲はまた身体をぶるりと震わせ、喜んだ。
 気づけばもう町を越え、緑の多い場所を飛んでいるようだった。下を覗けば野原の草々が風に揺られ、踊っている。
「わあ!見ろあれ!」
 前方に見えたのは大きな虹だった。丘の上に広がる青空に、その虹は雄大で鮮やかな橋を架けていた。そして雲は高度を下げ、虹の方へと向かった。どうやら雲は俺のために、虹の橋を渡ってくれようとしているらしかった。
 虹のすそにたどり着くと雲は一気に高度とスピードを上げ、俺は目の前を流れる虹の色彩を心ゆくまで味わった。
「ありがとなチビ助。でもお前ももう少しだぞ!いいか虹ってのはな、雨のあとに架かるもんなんだよ!だからこの先には!」
 その時俺と雲は虹の中央へと達し、一気に視界が開けた。そしてその奥に待っていたものは、青空を占めるほど巨大な、入道雲の姿だった。
「うはは、そうか、あれか。お前のお母さんか!」
 その入道雲を目にし、雲が全身を激しく震わせ、喜んでいるのが分かった。俺も本当に良かったと、そう思った。

「おいチビ助、もうお母さんから離れんなよ」
 俺は野原の上に降ろしてもらうと、最後に雲の身体をそっと撫でた。
「俺のことなんて気にせずさっさと行け、やっと会えたんだから」
 雲は俺に向け、ぼふんと一度、身体を縮ませた。おそらくは俺にありがとうと、そう言っているのだ。
「いいからいいから」
 そして雲は一目散に入道雲の方へと飛んでいった。どこまでも小さくなった雲は、入道雲の身体に紛れてすぐに見えなくなった。

 俺はポケットからスマホを取り出し、野原を歩きながら電話をかけた。相手は元同居人である、元恋人だった。
「もしもし?……何の電話って、いや、なんか寂しくなってさ。だからその、戻ってきてくれないかな」
 俺はスマホをしまうと、あの部屋に向かって駆け出した。



続いてはこちらをぜひ。

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