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ショートショート『夢オチドロップ』
これを舐めれば、ひとたび全て夢になる。そう言われ渡された飴玉はポケットの中に入ったままだった。
その日、私は走っていた。自身の小説家デビュー10周年を記念し、新刊の発売と共に開かれたサイン会に遅刻寸前だったのである。会場が割に近所の書店であったがゆえに油断してしまい、前日の夜中まで執筆してしまっていたのだった。目が覚めてみればサイン会の開始まで優に30分を切っていた。
その書店は散歩がてらよく出向く馴染みの店で、その体感距離から換算するに、走ればなんとか間に合うだろう。タクシーを呼ぶ時間も無く、私はとにかく走り出した。
執筆ばかりの日々ゆえに想像以上に自分の体は衰えていた。腕時計をちらと見る。このままではとても間に合わない。私は目に入ったその路地に飛び込んだ。一か八か、近道を図ったのである。
薄暗く湿ったその路地を、私は息を切らしながら祈るように走る。
だから不意に私を呼びかけるその声に、私は一瞬気づかなかった。足を止め、振り返ってみるとそこに立っているのはしわがれた一人の老人である。なぜこんな路地に立っているのか、光もあまり差し込まぬ路地ではその顔もあまり見えず、正直言って薄気味悪いことこの上ない。
「やり直したいことは無いか?」
それは枯れ枝のような細い声だった。それでいてかつ、人の心を撫でつけてくるような声をしていた。
「40年も生きてればそりゃ、その位いくらでも」
そう答え、私は再び走り出さんと振り返る。だがその寸前、老人がこちらに向けて手を伸ばすのが目に入った。
「これを舐めれば、ひとたび全て夢になる」
そう言って老人は小さな一粒を私に渡した。瑠璃色の包装紙に包まれたそれを私はひとまずポケットにしまい、再び走り出した。
サイン会にはなんとか間に合った。予想よりいくらか多くの読者が集まり、私は彼らが買ってくれた新刊にサインをしていきながら、しばしの会話や握手を交わしていく。普段家にこもるばかりの孤独な日々を送る自分にとって、時々のこうした交流は貴重なものだった。また読者という存在を実際目にすることが出来るのもありがたい。
入れ替わり立ち替わり目の前に現れてくれる読者達。そしてその女性が目の前に現れた瞬間、私は彼女に目を奪われたのだった。
サイン会を終え、自宅に帰った私は執筆に戻るも、筆は進まなかった。
これは一目惚れというやつだろうか。いやまさか歳にも無くそんな。恥ずかしいことこの上ない。
だが彼女の姿が頭から離れないのも事実で、既に何十回もサイン会で出会った彼女の姿を思い返していた。
「私先生の大ファンで、先生の作品を読むのを楽しみに生きてるみたいなところがあって」
「ああ、それはどうも」
緊張してしまったためか、私は随分と不愛想な態度をとってしまう。
「サイン会に来るのも今回が初めてで」
「そうですよね」
「けどこのシリーズが特に大好きで、新刊が嬉しすぎて、それで今日来たんです」
今回の新刊は、私の代表作であるハードボイルドシリーズの最新作だった。ファン層としては私と同年代かそれ以上の男性が多かったから、それゆえに一層彼女の存在が際立って見えたのかもしれない。
サインする間にいくらかの会話を交わし、他の読者と同様に彼女は去っていった。それは至極当然のことだったが、私は何か後悔に似た感情を覚えていた。
私はふと、上着のポケットの中の存在を思い出した。あの老人に貰った飴玉。「やり直したいことはないか?」という老人のその声。
やり直せるならば今日のあの瞬間に戻りたい。そうしたら連絡先を聞くとか渡すとか、その位のことならできたかもしれない。そう思いながら私は、包みから出したその飴玉を口に放り込んだ。
「私先生の大ファンで、先生の作品を読むのを楽しみに生きてるみたいなところがあって」
「え?」
気づけば私の前には彼女がいた。きょろきょろと辺りを見渡すと、少し離れた位置に立っていた担当編集が私の元へ駆け寄ってくる。
「どうされました?」
「……ここは?」
「は? もしかしてまだ寝ぼけてます? 先生のサイン会でしょう」
呆れたように担当編集は元の位置へ戻っていく。やはりそこは既に終わったはずのサイン会場だった。
「すいませんなんか、あ、急いでサインしますね」
私は誤魔化すように手元の新刊にサインペンを走らせる。ちらと目線を上げると彼女は待ちきれんような微笑みを浮かべている。
「サイン会に来るのも今回が初めてで」
「そうですよね」
「けどこのシリーズが特に大好きで、新刊が嬉しすぎて、それで今日来たんです」
同じ会話の成り行き。そして記憶と同じように彼女はサイン本を受け取ると、次の読者に代わるため立ち去っていく。
私はまた自室で滞る原稿の前にて、じっと考え込む。
一体今日の出来事は何なのだったのだろう。しかし事実を述べるとするならば、飴玉を舐めた途端にサイン会へと時が戻った。
「やり直したいことはないか?」
頭の中で反芻するその言葉と同時に、私はまたポケットから取り出した飴玉を口に含んだ。
「私先生の大ファンで、先生の作品を読むのを楽しみに生きてるみたいなところがあって」
「ああ、どうもありがとう」
私は可能な限り和やかに微笑みながら彼女と3度目のその会話を交わし、同時に傍らから取り出した手帳の1ページを千切り、そこに急いで電話番号を書き連ねていく。
「よかったら今度食事に行ってくれないだろうか?」
もし仮に断られても失敗しても、もう一度やり直せばいいと思った。サイン本と共にその紙を渡すと彼女は、目を丸くして私を見ていた。
その晩また原稿の前に座り込み、そろそろやり直すかと飴玉を手にした瞬間、電話が鳴った。
「私と交際してくれないだろうか」
何度目かの食事の際、私は彼女にそう切り出した。すると彼女はしばらくじっと考え込む。その沈黙で私は理解し、その予想通りに彼女はごめんなさいと口を開く。ショックかと言えばそうではない。なぜならそれはもう何度目の撃沈か分からなかった。私は既に何度も彼女への告白を繰り返し、その度に振られていた。
家に帰り、また飴玉を舐める。そうして再びその食事の前へと戻る。
これまで私は様々なやり方、伝え方を試みた。けどその全てがダメだった。
この飴玉は過去へと戻れる飴玉だ。それまでの出来事を夢だったことにして、リセットし、好きな時からやり直すことが出来る。それはもはや明らかだった。
時々1度目の食事まで戻ったり、彼女と出会ったサイン会のあの瞬間まで戻ることもあった。彼女との距離の詰め方を見直し、やり直し、彼女から最も好かれるよう、私は徹し続けた。誰か好きな人がいるのかと、彼女に問うこともあったが、今はいないと彼女は答えた。その表情や声色は何度見ても聞いても、決して嘘などではなかった。
試行錯誤を繰り返し、ころころと話し方や態度や何もかもが変わる私に対して、彼女はいつも変わらなかった。いつでも同じ笑顔を私にくれた。だからこそ会う度に、彼女と話す度に、過去へと戻りそれらを繰り返す度に、私は彼女に惹かれていった。
だが何十度も断られていくなかで次第に、膨れ上がる思いもあった。これだけやってダメならば、きっと私ではなかったのだ。彼女を幸せにできる人は他にいるのだ。けれどせめて一つだけ知りたい。私の何が違ったのか。
「私にダメな部分があるなら、全部直す。私に出来ることならなんだってする。だから、」
「違うんです」
彼女は俯き、そして長い沈黙の末に絞り出すように呟いた。
「……病気なんです」
彼女は自分が重い病気に冒されていること。そしてそれはもう治る見込みも無いということを私に告げた。
「ほんとは最後まで言わないつもりでした。隠しておくつもりでした。あのサイン会の日も、病院を無理矢理抜け出して行ったんです。今日もそうです」
部屋でまた一人、飴玉を見つめた。
そしてこれまで繰り返し続けた自分を強く呪った。
そんな気配など私に露ほども見せなかった彼女はこれまでずっと、病に苦しみ続けていたのだ。であれば過去に戻り続けていた私の行いは、そんな彼女の苦しみを幾度も繰り返させていたことと何ら変わらないではないか。
やり直したいことは無いか?
これを舐めれば、ひとたび全て夢になる。
この飴玉が私に授けられた意味があるのだとしたら、私に出来ることがあるのだとしたら。それはもう一つだった。
「私先生の大ファンで、先生の作品を読むのを楽しみに生きてるみたいなところがあって」
目の前で彼女が笑っている。それは随分と久しぶりの、彼女との初対面だった。
「サイン会に来るのも今回が初めてで」
「そうですよね」
「けどこのシリーズが特に大好きで、新刊が嬉しすぎて、それで今日来たんです」
「それはよかったです」
「特に主人公のキャラクターが好きで、ハードボイルドなのにめちゃくちゃ自分の健康に気をつかってるところとか」
「何よりも健康が大事ですから」
「ほんとですよね。だから私もこの主人公に倣って、体にはずっと気を使ってるんです。この前の健康診断もオールA判定です」
そう言って彼女はまた笑った。
私は最初からやり直したのだった。飴玉を舐め、10年ほどを全て夢にした。そのハードボイルドシリーズの一冊目を書く前に戻った私は、主人公の性格を限りなく健康志向へと書き直した。その時点では彼女はまだ病気ではなく、そしてこの本に書くことであれば彼女と出会えぬとも、彼女に伝えることが出来るから。
「ご幸せに」
私が言うと彼女は目を丸くする。そして「そうなんです。ありがとうございます」と私にその左手を見せる。その薬指には指輪がはめられていた。
飴玉を手に入れる前へと戻ったために、私はもうその飴玉を持っていなかった。あの路地をまた通ったが、あの老人はもういなかった。けどそれでよかった。あの10年の一切が夢となってくれたなら、もうそれでよかった。
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