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ショートショート【フンコロガシスギ】

 大人はわざわざ地面なんて凝視しないのだから、夏の朝、公園にてその虫を少年が見つけたのはもはや当然のことだった。
 なにやら小さな丸がころころ転がっているぞと、少年はまず思った。見ればその小さな泥団子のようなそれを、一匹の虫が後ろ足で一生懸命に転がしているのだった。前足でしっかりと踏ん張り、ほとんど逆立ちのような姿勢となって、既に自分の身体よりもいくらか大きくなった団子を転がしており、しかもその団子は地面の一部を少しずつ蓄えながら、大きくなり続けてもいた。
 そして少年はそんな様子をしばらく眺め、その虫が、いつか読んだ昆虫図鑑の端の方に置かれていたフンコロガシであることに気づいた。
 まだ午前中も前半、少年の手の中には溢れんばかりの時間があった。少年はただじっとその行く末を眺めることにする。フンコロガシは少年の熱視線など意にも介さず、ただ淡々黙々と一心不乱にフンを転がし続けていた。それに伴い、一定の速度でフンは大きくなり続ける。気づけばあの図鑑の写真など恐れるに足らぬほどのサイズにまでそれは膨れ上がり、フンは少年の拳ほどの大きさにまで到達していた。
 フンの増大と共に、フンコロガシは移動してもいた。最初は公園の隅にいたはずのフンコロガシは、今や公園の入り口にまで辿り着き、どうやらそのまま公園の外へ、新しい旅路へと歩を進め始めるようだった。
 ゴロ、ゴロ、ゴロと、転がす度にそんな音がしてきそうなほどの大きさである。フンコロガシは顔色一つ変えず、汗もかかず、フンを転がし続けている。その傍らを少年は歩く。
 フンコロガシは道路というものを理解しているのか、何の問題も無く道路に沿ってフンを転がし続けていた。道路の表面にある僅かな砂埃や、道路わきに溜まった土を吸収していきながら、僅かにそのペースは落ちたもののフンは地道に大きくなり続けた。町に正午のチャイムが鳴った頃、そのフンはサッカーボールほどにまで膨れ上がっていた。
 商店街を通った際も、比較的人通りの多い駅前を通過した際も、すれ違った人々の誰もそのフンコロガシとフンに気をやらなかったのは、一見傍らを歩く少年が、泥だらけのボールをゆっくりと蹴り進んでいるように見えたからかもしれない。
 少年はどこまでも歩き続ける。フンコロガシもどこまでも転がし続ける。

 フンコロガシと共に町中を歩き回っていれば、嫌でも少年は少年の友達と遭遇するのだった。
「なにしてるの?」
「フンコロガシ」
 そう言って指さす傍らを見ればみな仰天した。少年の隣にはゆっくり、ゆっくりと自走する大玉転がしほどの土色の玉があり、よく見てみればそれは小さな小さな虫が転がしているのだから。
「俺も一緒に行っていい?」
「もちろん」
 少年は止めることなど無い。なぜなら止めても無駄であることを知っているからだ。そして仲間が増えれば増えるほど、少年達の冒険心には火が付き、気づけば大きく片腕を天に伸ばし、上下に振りながらフンコロガシを一斉に鼓舞し始めてさえもいた。
「頑張れ頑張れ!フンコロガシ!フンコロガシ!そのまま全部!吹き飛ばせ!」
 少年達には少女たちも加わり、先頭を進む謎の巨大泥団子と後を連ねる少年少女の大行列というなんとも珍奇な様が出来上がる。
 こうなれば通りがかった大人たちも、声をかけずにはいられない。
「なんだいこれ?」
「フンコロガシ!」
 そんな会話が四方八方から飛び交い、先頭のフンコロガシを見て大きく驚嘆し、のけぞる大人達。彼らもまた行列に混ざる。
「祭かい?」
「フンコロガシ!」
 その様を見て、勘違いしたお爺お婆も現れる。
 そして騒ぎを聞きつけたのか、少年少女たちの保護者や学校の先生たちも現場に駆け付ける。始めこそ、おかしな遊びから息子娘たちを連れ返す心づもりで馳せ参じたわけであるが、端的に言えばただみんなで虫を追いかけているだけである。それがダメだという説明も思いつかない。さらにはそのフンコロガシに対して、勿論興味も湧き出している。
 最終的には子どもたちの安全を守るための付き添いという名目の下、大人たちも行列の中へと溶け入っていく。

 フンコロガシのフンの直径が電話ボックスほどにまで達した頃、町の人間はほとんどその行列の中へと参加しきり、家々はもぬけの空、行列はもはや人の海へと変貌していた。
 フンコロガシは大通りの道路の上でフンを転がしていた。一車線はフンで埋まり、フンコロガシが通るためにその道は町人たちによって自主的な閉鎖状態にされていた。人の好奇心とは不思議なもので奇妙な一体感を生むものらしい。それに反対する人間など一人もいなかった。みなこのフンコロガシの行く末に夢中だったのである。
 義務的に警察も出動したものの、フンコロガシを取り締まる法律など無い訳だからどうしようもない。あくまで道に溢れる人々の整理という名目を打ちたて、同様に人々に混じった。

 フンがどれほどまでに巨大になっても、フンコロガシはフンを転がし続けるのだった。この小さな身体の中にどれだけの力が秘められているのだろう。人々はみな思った。
 だがほんの、ほんの僅かにその速度が落ちてきていることは、最も最初から観察を続けている少年の目にだけ、分かった。どうやら終わりはそう遠くない。
 夜となってもすぐにフンが止まる様子など無かった。街灯や家々の明かりなど、可能な限りの電力が総動員され、人々は思い思いにフンコロガシを見つめた。
 時間と共に人はどんどんと増え続ける。誰かがネットにあげたフンコロガシの画像や動画は一気に拡散され付近の街に住む人々やマスコミを、まるでアリジゴクのように吸い寄せていく。
 随分と大きくなったフンは、巨大化する速度をかなり鈍重にしたものの、二日目を迎えてもなお止まらなかった。
 二日目の昼になると、得体の知れない種類の人々も中には現れ始めていた。彼らはフンコロガシに向かい、両の手を組むと跪いて、目を瞑りブツブツと何やら祈りのようなものを捧げるのだった。巨大化し続けたフンは遂に、信仰の対象とさえ成ったようだった。
 広い道を悠々と進んでいくフンコロガシの前に、路肩に止められた何も知らない車が現れることがあった。だがフンコロガシはそんなことなど意にも介さない、止まることなど無い。一分間にたった数ミリかそこらといった速度だろうか、車まで触れたフンは進み続け、僅かずつミシミシという軋んだ音を鳴らしながら、その車も踏み潰してしまう。そうすると人々の興奮する声が沸き起こりさえした。そして人の海を外れ、前に出過ぎた人々が、運悪くそのフンの前に転がり出てしまうこともあった。そして運の悪い人々は指の先などをフンに押し潰された。さらに運の悪い人間はそのまま全身を踏み潰された。
 その辺りから人々は、フンコロガシを畏怖の対象としても捉えるようになった。恐怖に駆られた人々は警察や司法に、あのフンコロガシを殺してくれと懇願し始めた。だがフンコロガシに法が通用するのか、さらにはこんな小さな虫に、害獣認定のようなものが成されるのか。また同時に膨れ上がり続けたフンコロガシを信仰する人々の抵抗にもあい、人々は停滞し、もうしばらくはフンコロガシを眺める他無かった。

 そしてフンコロガシは、停止した。それは四日目のことで、フンは一軒家ほどの大きさにまで膨れ上がっていた。
 だがよく見ればフンコロガシの脚は、プルプルと震えている。フンコロガシはまだ転がそうとしていたのだ、どこかへと向かって。
 このフンコロガシに対して、専門家はいくつかの見解を示していた。そもそもフンコロガシがフンを転がす理由には大きく分けて二通りあって、一つは自分の住処でゆっくりとフンを食べるため。ゆえにこのフンコロガシにはどこか遠くに故郷があったのかもしれない。
 そしてもう一つは。
「頑張れ!」
「頑張って!」
「フンコロガシ!あと一歩だ!」
 フンコロガシを応援する側の人々の声が至る所で弾け飛んでいた。その声が聞こえているのか聞こえていないのか、フンコロガシは最後の力を振り絞っているようである。だが遂にその力も尽き、フンコロガシは今までの奮闘が嘘だったかのようにころりと、ひっくり返って動かなくなった。

 後に残されたのは巨大なフンだけだった。
「モニュメントとして置いておこう」
「いや、いっそここに記念館も建てよう」
「いや、その前に調査を」
「早く壊しましょう」
 様々な人の声がこだましていた。
 だが人々は気づいた。そのフンのつるりとした表面に少しずつ、亀裂が入ってきていることに。
 そして亀裂は瓦解し、その裂け目から現れたものの姿に人々は声を失った。そこからゆっくりと現れたのは、巨大な虫の頭だった。崩れ落ちるフンの残骸からその全貌が見えると、その虫は確かにあのフンコロガシの姿そのものだった。ただ一点その身体が人間など優に超えるほど巨大な点を除けば。
 専門家は言った。フンコロガシのフンは、幼虫の住処になる場合があると。いつ産み付けていたのか、この巨大なフンの中で、どうやらこのフンコロガシはすくすくと成長を遂げていたらしい。
 そうして恐れおののき、逃げ始める人々をよそに、フンコロガシはまた動き始める。
 フンコロガシは周囲に散らばった、今まさに自分が住んでいたフンの残骸たちをより集め、再び一つの球形へと形作っているのだった。フンは先ほどよりはいくらか小さな、とはいえ十分に巨大な球へと戻った。
 そしてフンコロガシは動き出した。またどこかへと向かい、フンを転がし始めたのである。
 指先程だったフンコロガシがあれほどまでに巨大なフンを作り上げたのだ。だとしたら今動き出した巨大なこのフンコロガシは一体。
 人々は声を失うばかりで、もう誰も応援することは無かった。


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