お相撲のパーティー
家族や友達との間だけに通じる言葉って、誰しもにあると思う。
小さい頃、間違えて呼んでいた名前がそのままそれを示す呼称になったり、正式名称のわからないものをテキトーに名付けていたらいつの間にかそれが家族間のオフィシャルワードになっていたり、そのルーツは様々なはず。
少しネットで調べると、知らん家族がリモコンのことをピッピと呼んでいたり、スクランブルエッグのことをポロポロと呼んでいたりしているのを知り、それだけのことなのに人んちのリビングに勝手に上がり込んでいるような気分になる。
僕の場合、思い出そうとすればキリがないけれど、
そのうちの一つ「お相撲のパーティー」を紹介します。
何か大きなものが集まって賑やかな様子をこう例えたのではなく、文字通りお相撲さんのパーティーのこと。
たくさんのお相撲さんや元お相撲さんが集まってどすどすワイワイと食事をするのだ。
なぜそれに自分が参加していたのか、どういった催しなのか、どんな経緯で開催されていたのか、細かいことは何一つ分からない。当時も今も。
だけど子どもの時、たまにやってくるお相撲のパーティーがとても嬉しかった。
「今日はお相撲のパーティーだよ」と父が言う。すると、「今日はお相撲のパーティーだ!」となる。
お相撲のパーティーは夜に開催されるので、夕方まではいつも通りの休みの日。クリーニング屋にシャツを取りに行くこともあった。
日が暮れる頃になるとおめかしが始まる。小学生ながら、のりでパリパリの真っしろいシャツを着てサスペンダーを母にピシッとつけてもらう。
あれ以来つけていないんじゃないかな、サスペンダー。
ジェルで髪をセットしたなら車に乗り込み出発だ。
正装で走る夜の東京は、黒く濡れて輝いてみえたなあ。
時代は平成ど真ん中だったけれどカーステレオからは父が選んだレベッカのフレンズとかが流れてきていたから、
首都高からはみ出る東京の表層は、いざバブルに向かわんとする頃の有頂天な夜のパワーを燦々と讃えていたように思い出される。
タイムマシンのようにいろんな時代を貫いてゆくと、1時間ちょっとでパーティーの会場に到着する。
きっとどこかのホテルとかなんだろう。果てしなく大きい広間には結婚式のように円卓がずらりと並んでいて、正面と思われる場所には簡単なお立ち台のようなものが用意されている。
変わるがわるいろんな人が挨拶をしていて、なかなか食事が始まらない。
話の内容はひとつも覚えておらず、その代わりに上質な白いテーブルナプキンや重たい銀のカトラリーばかりが記憶に残っている。
食事にはいろんなパターンがあってビュッフェスタイルの時もあればコースの時もあったような。
子どもにとっては目新しくもあまり楽しくない食事だったと思う。食べ物が難しすぎた。
ちゃんこが出たかどうかは覚えていない。
お相撲のパーティーの最高潮は食後の時間、大人たちがゆっくりとお酒を飲み交わしたくなってきた頃からだ。
同じくらいの年の子ども数名と顔合わせをしてから、みんなで仲良くやってくれと自席から放たれる。
わあ〜っと広い会場を駆けるとたくさんのお相撲さんがワハハと笑う。
赤い顔のおじさんが「ぶら下がらせてもらいなよ」と言ってくれれば、力士の腕につかまって浮かぶ最高のアトラクションがはじまるし、
「かかってこい」と言われれば、子ども全員でぶつかり稽古に挑んでいた。たまに勝つこともあった。
ずごろんと転んだお相撲さんを見て、お腹を抱えて笑っていた。
大人が子どもに疲れてくると、子どもは広間の外へと冒険に飛び出していた。
一歩でも部屋の外に出ると、途端に喧騒が遠くにいってしまい心細くなる。しんとした廊下は分厚いカーペットが音を吸って声も響かない。広がりのない空間に閉じ込められてこのままどこかに連れて行かれてしまいそうだ。広間から漏れた光がもうあんなにところにある。人の体温が、次第に遠ざかる。
だけれども、やっぱりドキドキした方がいいもんね。重たいカーテンの向こう側を覗いたり、パイプ椅子がたくさん収納されている部屋を見つけたり、みんなでかくれんぼをしたり。その日限りの不思議な友情は押し寄せる不安を簡単に乗りこえていった。
大人たちが呼びにくるまで、知らない国の知らない土地を僕たちは全身で駆け巡りまくった。
これがお相撲のパーティーです。
今お相撲のパーティーに行ったとしたら、きっとそのパーティーの名前とか意義とか経緯とかを知ることになるし、たくさんの人たちの間で自分の立場をもち立ち回らないといけなくなってしまう。それは僕にとってのお相撲のパーティーとは大きく異なる催しであるわけです。
お相撲のパーティーは、あの頃の自分が、あの時代の中で、あの時の感受性で通過したあのパーティーの姿にしかなり得ない。
皆さんにとってのお相撲のパーティーはありますか。