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「わからない」をその場で解決しない

「わからない」と感じるのは、あくまでも状態であって、別に良いも悪いもない。

 知りたければ調べればいいし、自分で答えを考えてもいい。
 だけど、それははたして「すぐにわかる」必要があるのだろうか?
 時間をかけて向き合ったらいけないだろうか?

わからないを熟成させる

 らくだメソッドの高校単元をやっていると、「全然わからない!」と思うのは珍しくない。最初問題に出会った時に、まったく意味不明で、思考停止に陥ってしまう。

 答え合わせをして、解説を読めばだいたいは引っかかりはつかめるのだけど、それでもなお首を捻ってしまう問題もある。

 子どもの頃は、答えがわからないとわかる人に聞きに行って、解説してもらった。問題があればそれは解決する。その習慣が刷り込まれているせいか、問題があればその場でわからなければいけないと思っていた。
 ただ、解説を聞いて「なるほど」と思っても、似たような問題を解くとやっぱりわからないことも多かった。

 けれど、らくだメソッドではわからなくても、その場で解説してくれる人はいない場合が多い。そうなると、自分でやらなければならない。
 とはいえ、考え込んでもわからなかったのだから困っているのだ。結局その場の「わからない」は放置されたままになる。
 ただ、同じプリントを何度もやっていると、だんだん腑に落ちてくるのだ。その結果、ふとした拍子に膝を打ったことが何度もある。

 だから、必ずしも「わからない」はその場で解決される必要はない。

「わからない」を感じている本人も周りの人間も、「わかる」を神聖視しすぎているのかもしれない。スピード勝負をしているわけでもないし、別にわかったからといって、それはただの思い込みかもしれないのだ。だったら焦らなくてもいいではないか。

 最初は気持ち悪くて、苦味にも似た後味の悪さを感じるかもしれないけれど、時間に漬け込んで味わえば、「わからない」も深みのある味になってくれるものだ。

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