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道化としての振る舞い

 今日、ある研修を受けた。

 内容としては、とても工夫されていて、言っている内容も間違っていない。時折、コメディタッチも入れて、おそらく評判の良い研修講師なんだろうなと思った。しかし、教科書的な進行を退屈に思ってしまった。

 最初から最後までの道筋や途中のチェックポイントまで双六のように決まっていて、受講者である自分達に許されるのはサイコロを振るだけ=進行の速さだけなのだ。しかも強制ストップマスがいくつもあるから、結局受講者が変わっても代わり映えはしない。

 やらなければいけないことが決まっている研修だから仕方ないし、実際受講する側からしたら、「正解」がある方が楽だろう。自分がどう思うかよりも、研修講師の望む答えを言えばいいのだから。

 けれど、ファシリテーターがいる場を曲がりなりにも経験してきた身としては、予定調和で進行するのはとってもつまらなく感じるのだ。

 その場に集まった人だからこそ、できること、起こることが楽しい。時に、嫌な気分になるし、傷つく場合もある。けれど、僕は受講者ではなく、参加者でいたいなと思った。

 なにか余白を作りたくて、途中途中で空気にそぐわない言動をしていたら、直接はなにも言われなかったけれど、とても面倒くさそうな目で見られてしまった。別に邪魔をしたかったわけではないのだが、20人以上の集団における道化的な振る舞いは、同調圧力が高くて難しかった。

 ただ、予め決められたゴールに向かうよりも、その過程を楽しみたいなと思う。そのためならば、喜んで不確定要素になりましょう。

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