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反応しないで、私は違う

 他者が自分と意見が違うことに反応しなくなってきた。10代の頃は他者が意見に賛同してくれるか気になって仕方なかったけれど、20を超えてようやく自分の内側で処理できるようになった。ただ、それでも「違う」と言われることに反応していた。

 多様性が口酸っぱく叫ばれる時代において、人と人が違うのは当たり前だけど、頭で理解するのと実感レベルで身体に落とし込むのは異なる。ようやく今になって、意見の違いをそのまま受け入れるようになっていた。

 それはなぜなのだろう? 思い当たるのは、自分が発信をするようになったからではないだろうか。人の集まる場における発言やnoteを書いていても、否応無く、「私は違う」と言う人に出会う。

 その数を重ね続けて、ある時に腑に落ちる。消化自体はその前から始まっているのだけど、腑に落ちるまでには時間と体験の数が必要なのだ。

 そうやって、自分が反応しなくなって思うのは、いま他者の賛同が欲しくて仕方ない、渦中にいる人に「私はあなたと違う」と伝えるしかできない。つまり、体験の数を1つ増やす関わりだ。

 わかっちゃいるけど、やめられない状態なのだ。

 そんな人に「わかる?」と上から道理を説いたって、もう頭ではわかっているのだから鬱陶しくて仕方ないだろう。必要なのは断酒会のようなピアサポートだ。つまり、同じ苦しみを抱えている人同士での対話ならば、耳を傾けようとする。

 昔だからできたこと。できるようになったから、できなくなくなること。色々あるのだとしみじみと噛み締めている。

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