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「黙る」という参加の仕方

 3/2~3の2日間、6人で静岡県に住む友人の家を訪ねました。顔見知りも初めましてもいる中で、和気藹々とした時間でした。
 個人的には移住して間もない友人のお宅訪問のつもりでしたが、インタビューゲームをやったり、焚き火をしながら夕食を食べたりと盛りだくさんの内容でした。

少なくなる言葉

 最近、自分が語りたいことが少なくなりつつあります。
 だれかの問いに触発されて、話すうちに熱く語っていることはありますが、「自分の話を聞いてくれ!」と人をつかまえて喋り倒しはしません。

 ただ、そうすると「なにを考えているのかわからない」と思われるようになりました。それで相手を不安にさせるのも本意ではないので、微笑むようにしていたのですが、もっと積極的に「黙る」ことをしてもいいのかもしれない。

 そんなことを今回の2日間の最中で2度思いました。

「黙る」という参加の仕方

 1つはインタビューゲームの中で、対話への参加の仕方について話している時です。ついついコミュニケーションにおいては「話す」「聞く」の2種類にわけられてしまいます。しかし、実際には対話への参加の仕方はもっと色んなカタチがあるのではないか、という話がありました。

 そこで、僕は「黙る」という参加の仕方があるのではないかと思いました。

 なにも言わないのは意見がないのと一緒だと言われる場合もあります。しかし、気の向くままに喋って、余計な一言を発してしまうこともまたあります。

 だから、あえて余計なことをしないように心がける。ただ、それは「本当は言いたいことあるけど、言えない」という受動的な沈黙ではなく、「すすんで黙る」という積極的な沈黙です。

 黙るというのは、肯定も否定もしないわけで、言葉を重ねるよりも評価・判断をしないシンプルな姿勢の表明だと思いました。

「口を噤む」と心が喋り出す

(↑焚き火した場所の隣にヤギがいた)

 もう1つは、たき火をしている時です。
 食事も一段落して、あとは片づけるだけという時に、ふと静寂が訪れました。それまで談笑したり、ポツリポツリと会話を交わしたりしていたのに、燃え尽きようとしている薪を前に、全員が言葉を失ったように黙り込みました。

 時間にすると3分くらいだと思うのですが、とても長く感じました。

 言葉が飛び交うのがなくなると、今まで聞こえなかった自分の内側の小さな囁きが聞こえてきました。

「今日は座る時間が長くて下半身がゆがんでいる」
「煙に燻されて体調が悪い」
「あれ? 僕は、そしてみんなは今どんな表情しているだろう?」

 浮かんできたつぶやきは、揺らめく炎の中に溶けるように消えていきました。そして、どうしてかそのあとは気が楽になりました。

帰宅して

 都市とはまったく時間の流れが違いました。
 早いと思ったら、全然時間が経っていなかったり、30分くらいかと思ったら3時間経っていたり、まるで別世界にいたようでした。

 賑やかに、でもどこかしっとりと、時間を味わえた2日間でした。
 一緒に行ってくれた方々に感謝を懐きました。こういう体験を一緒にできる人達がいるってことは本当にありがたいことです。


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