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学ぶってハードル高い

 最近、個人的に「学ぶ」と口にするハードルが高まっている。
 なにかについて「学ぶ」と言った時、本当にその対象について学んでいるのだろうか? 

 仮に、僕が昆虫について学んだとする。
 その学びをどのように証明するのかは難しい問題だ。記憶し、説明(出力)できることが学びならば、それは他者によって規定されてしまうのだ。テストで点数が取れず、すぐ忘れ、言語が発展途上の子どもたちはなにも学んでいないことになる。

 けれど、実際はそうではない。なにをどうかはわからないが、子どもたちは学び、成長していくのだ。

 そして、学ばなかったことについて学んでいないのか? つまり、昆虫について学ぶ時、昆虫以外のことは学んでいないのか?

 そうとは言えないだろう。たとえば、昆虫について調べたら、検索の仕方を学ぶだろうし、PCの扱い方も学ぶだろう。一つの「学び」には数えきれないほどの学びのプロセスが詰まっている。

 だから、「僕は〇〇について学びました」とは軽々しく言えなくなってきている。自分がアウトプットできるとは限らないし、それ以外のことについてより深く学んでいるかもしれない。

 ただ、学ぶが大事だという直感だけが強くある。その直感を大事に抱えながら、今日もnoteを書く。この継続が一体どんな学びになっているのかは僕もまだ知らないし、知ることができるのかもわからない。

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