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違うから助け合える

 昨日は朝から会議、昼から夜にかけては対話の場に出かけて、ずっと話したり聴いたりをしていました。

 そのせいか、帰宅する頃にはへとへとになって、布団に倒れこむように寝てしまった。インタビューゲームなどで人と関わることは訓練してはいるけれど、全身で人と関わることにはやはり並々ならぬエネルギーを使います。

 年代も性別も仕事も異なる人々と対話をしていると、「本当に人間って違うんだな」と痛感します。

 僕が頑張ってもできないことを当たり前にやっている人がいて、そしてその人が苦労していることを僕はなんでもなくこなしている。

 なんでもかんでもできるようになればいいのに、と願う気持ちはあります。ただ、全てが完璧にできる能力を持った状況を想像すれば、それは恐ろしくもあります。

 だって、1人で完結してしまうので、誰も必要なくなってしまうのです。周囲の人が馬鹿に見えて仕方ないでしょう。「できなさ」に共感できない以上、きっといつも苛立っていて、他者を見下しているかもしれません。

 だから、僕は自分が完璧でないことにもどかしさを感じる一方で、ありがたさも感じます。自分も他者も得意不得意があるから、お互いの助けになれるし、必要としあえる。

 しかし、現実には「違う」ことが多くの対立を産んでいる現状があるんですよね。

部分しか見ていない

「あの人とは考え方が合わない!」
 仕事やプライベートで、相手を許容できないことがあります。そうして対立が生まれて、時間とともに関係性が悪化の一途を辿る。

 けれど、ではなにが合わないのでしょう?

 思いつく限り羅列してみれば、恐らくたくさん挙げることができません。それが意味するところは、ある1つのこと、ある1面だけを見て、相手を判断しているのです。

 ジグソーパズルの1つの繋ぎ目だけを何度も繋ぎ合わせようとして「凸と凸だから無理だ!」と言っているようなもので、回転させたり、ひっくり返してみれば、合う場所があるかもしれません。

 それは裏返せば仲良しも一緒で、たまたまある部分が合っているから仲良くできているだけなのかもしれません。だから、なにかの拍子に溝が生まれると、それを埋められないまま破綻してしまいます。

全体を見るってどういうことだろう?

 全体を見られるとなにがいいかといえば、その人と合致するところを見つけられる可能性が高いということ。

 ここは合う、ここは合わない。ここなら補い合えそう。

 そういう選択肢が生まれます。
 そして、尖っているところ欠けているところで補い合えればお互い幸せになれるのでしょう。

 みんなが同じ模様の同じ形のピースならジグソーパズルは完成しない。違うからつながりあって、色んな絵が描けるのでしょう。

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