見出し画像

なぜグラレコをやるのか

 グラレコの筋トレを100日間やってみました。右も左もわからないまま、とりあえず思いつくことをやってみたところ、ようやく「なぜ僕はグラレコをやるのか」がわかってきましたので、今後振り返る時のチェックポイントとしても記しておきます。

 実績のあるスポーツ選手が技術論を語る映像や本において、全然参考にならないことがあります。
 僕は中学時代に卓球を始めました。構えやラケットの振り方などの基礎から技術論まで乗っているノウハウ本を読んだのですが、まったく腑に落ちなかった記憶があります。

 スポーツを見るのは好きなので、今でもスポーツに関する動画や記事を読みます。見よう見まねでやってみようとしても、これまた上手くいきません。

 もちろん「わかる→できる」は直接繋がりません。けれど、そもそもそれ以前の問題があります。

 言語化できるのは、それを意識してできるようになったからです。本人の中で試行錯誤したのだから、その道筋を説明することもできます。しかし、無意識にできていたことは意識の網に引っかかりすらしません。

 野球のバッターであれば、バットの構え方、重心のバランス、力の入れ方などを何万回と繰り返して自分にあったスタイルを見つけていくのでしょう。だから、プロのレベルであればだれでもそれなりのこだわりがあり、伝えることができます。
 ただ、その選手がどうやって立っているのか、呼吸のリズムはどうかといった技術以前のことに関しては、よほど気にしていなければ、細部までは言語化できないでしょう。

 しかし、その土台の上に技術が積み上がっていくので、土台が合っていないものに乗せてもやがてバランスを崩してしまうだけです。

 野球の打撃理論を求めている人に、本当に必要なのは選手にとって当たり前すぎる身体の使い方レベルのものです。しかし、言語化しようという意識すら浮かんでこないので、結局それを知る機会はありません。
 身体のできあがったプロ野球選手同士だとそういうのが通じていて、素人が聞いていると意味不明なことも「なるほど」と通じ合っている。

 それは素材が一緒か、あるいは似ているんですよね。だから、同じ加工をしても同じようなものができあがる。でも、素材が違うものを同じ加工をしていたって違うものしかでき上がらない。

 よく基礎をしっかりという話がありますが、その基礎も足し算とか引き算とかそういうレベルで物事を考えてしまうんだけど、もっと前の次元で数への触れ方とか姿勢とかそういうものから考えていかなければいけない。

 ただ、そういう風に考える人は意外と少ない。
「なんでもいいからできればいいじゃん」と前にと進もうとするんだけど、それででかい壁にぶつかって、たちゆかなくなる。

 だから、実は一歩手前に戻ることが必要なのではないかと僕は考えます。

 基礎練習の類はそのためにやることで、僕がグラレコの筋トレでやっていたことはまさにこの「一歩前に戻る」作業でした。
 グラレコの上手な人に「なぜそこにその絵や図、文字を描いたのか?」「ここの空白はなぜ空けているのか?」と尋ねたところで、「なんとなく」「それがいいと思ったから」しか返ってきません。
 理不尽極まりないです。

 でも、仕方ないから描いていると、実は描くよりも「自分は見ること、聞くことができていなかった。だから、描けないのだ」と気づく。進むために始めたはずなのに、それ以前に戻ってしまう。
 ただ、見ることと聞くことに意識を向けると、以前よりも細かく捉えられるようになり、自然と描くものにも変化が出てきます。

 その根拠になるかはわかりませんが、とりあえず100日続けてみたら、「わかりやすくなりました」と言ってもらえました。でも、なにがどうわかりやすくなったのか、僕には説明できません。

 なぜなら僕は前に進んでいる実感がなく、むしろ糸の根元を辿っているような感覚だからです。

 だから、もし知りたかったら一緒にやってみましょう、と誘うことしかできません。


読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。