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「老いる」とは余力を残そうとすることかもしれない

 自分が幼児だった頃のことを覚えているでしょうか?

 僕はまったく覚えていません。だから、自分がどんな幼少時代を過ごしていたのかは身内の話を頼りにするしかありません。

 ただ、子どもというのは総じて加減をすることが苦手です。0か100かのONOFFスイッチです。成長するにしたがって、その間を調節する能力を獲得していきます。

余力を残すか残すまいか

 お盆で甥っ子に会う機会がありました。
 無邪気な顔で「遊んで」と言ってきます。走り回っていれば喜んでくれるので、こちらとしてもやりやすいです。

 しかし、キャッキャッと遊んでいた甥っ子がある瞬間に目を擦ります。そして、5分も経つともう立っているのもやっとになります。本当にスイッチのように突然眠くなるのは凄いなぁと思います。

 それはつまり、力を余すことなく出し切っているということです。

 大人に目を移せば、「疲れた」とつぶやきながらも行動しています。どこかで余力を残したまま動いています。

 それは危機に備えるという意味では大事なことです。ただ、そうして全力の出し方がわからなくなっていくのだろうと思いました。

「老いる」ということは、余力を残そうとすることかもしれない。
 そして、遊ばせた力の出し方がわからなくなって、動けなくなっていく。それは身体に限った話ではなく心も同じ。

 かたく、融通がきかなくなるのでしょう。

 年齢を重ねても「若い」と言われる人は、確かに活動的ではあるけれど、その人が特別体力や気力があるというよりも、あるものを出し切ろうとしているのでしょう。
 だから、出し切ることを忘れた人は羨望を抱きます。

 けれど、羨んでみたところでそれが獲得できるわけでもなく、まずは自分の中にあるものを出し切ることから始める必要があります。

 甥っ子の姿を見て、「自分は余力を残そうとしていないか?」と自問してみた時に、鈍痛がした僕はもう老い始めているのかもしれません。

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