なぜ、それを良しとしているのか?

 自分を中心に、「入ってくる」はプラスで利益、「出ていく」はマイナスで損益、と言う定理が、世間では、ほとんどの領域に当てはめられるている。
 贈答が愛の表現であり親切な行為とみなされるのも、損益という犠牲を払いながらも成されるからだろう。自分が失っている分量を証拠として物質で示すのが贈答なのである。
(『負のデザイン』森本武 P51)

 今読んでいる本にこんな文があった。皮肉ではあるが、とても響く言葉だった。

 僕も含め、大多数の人は自分の払った犠牲に対する価値を見出す。だから、「時間・お金・労力」の費やした分に見合わないと不満を懐く。「損」が先にあるのだ。

「これだけ働いたのに、〇〇円しかもらえない」
「給料が〇〇円だから、それに見合った仕事をしています」

 後者の人がもっといてもおかしくないのに、聞こえてくるのは前者の声ばかりだ。サービスや価格を自分で決める事業者と給料をもらう労働者の間の断絶も、ここに由来されるのかもしれない。

 失うことが幸福であってもいいし、手に入れる不幸があっていい。
 それは試合に負けて勝負に勝つ、のような比喩的な意味ではない。大切な宝物の喪失を喜びとするのだ。

 今の価値観にいる僕は、強い抵抗を覚える。しかし、なぜ失うことを恐れるのかと考えてみれば、明確な理由はないのだ。生活環境において身につけた価値観であって、自分で選択してきたのではない。

 誤解してほしくないのは、今の価値観を否定しているわけではなくて、もっと多様な価値観があってもいい。そうすることで、全体として楽になっていくんじゃないか。

 たとえば、とにかく休むことを正義とすると、時間を忘れて勉強・仕事をしたい人は煙たがられる。それは1つの価値観が幅を利かせているからで、いくつもの価値観が浸透していれば、住み分けができるんじゃないかと思う。

 だんだん自分の言いたいことがわからなくなってしまったので、今日はここら辺でやめておく。

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