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身体の使い方で向き合い方を知る

 ちょっと前から掃除機を左手でかけるようになった。
 利き手は右手なのと、少し古い型なため掃除機が重く、思い通りに操作できずにもどかしさを覚える。
 ただ、何度も掃除しているうちに気づいた。単なる筋力や器用さの問題だけではない。身体の使い方からそもそも右手でやる志向性が染み付いていた。

 それが如実に現れたのは、机の下を掃除する時だ。
 椅子をどかして掃除するのだが、いつももたつくのだ。最初なぜか自分でもわからなかったのだが、ある時理解した。

 僕はいつも机の右側に立っていた。つまり、僕から見ると机も椅子も左側にある。これは右手に掃除機を持っていると、左手で椅子を持ち上げて、さっと掃除できる位置なのだ。

 しかし、左手に掃除機を持っていると、右手で椅子を掴むためには立ち位置を移動する必要がある。それも面倒なので、結局一旦掃除機を持ち替えて、左手で椅子をどかして、また掃除するという余分な動作が生まれていた。

 最小限の動きで、左手で掃除する場合は机と椅子に対して、左側に立つ必要があった。そうすれば、空いている右手で椅子を移動できる。

 こういう無意識的かつ染み付いた動きは無数にあるだろう。自販機のボタンを押す時に立ち位置や自転車(バイク)の左右どちら側に立つかといった、誰も気にしないところから、人と接する時の距離感や身体の向きまで現れている。

 身体の使い方そのものに、「その人らしさ」が滲み出てしまっている。だから自己観察が大事になってくる。身体の使い方から、どんな志向性を持ってこの世界を生きているかがわかるからだ。あえて誇張的な言い方をすれば、身体の使い方を通して「私はこの世界に対してどのように生きているのか」を知ることができるのかもしれない。

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