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幸せな狂信者と不幸な取り巻き

 僕は信じるとは、「裏切られる覚悟をすること」だと思っている。どんな結果になろうともそれを受け入れる。だから、相手が意図する・しないに関係なく、裏切ることになっても、それを許容する覚悟をすることなのだ。

 ただ、それは狂信とは分けて考えるべきだと思う。狂信は「裏切られる可能性すら考慮しない」のだ。

 正直なところ、僕は「ワクワク」を連呼する人をあまり信じられない。

 自分だけがワクワクして幸せになりたいならば、そんなに難しくないのだ。だって、狂信してしまえばいいから。

 怪しい新興宗教にのめりこむ人自身は、きっと幸せだろう。
 だって、その思想にどっぷり浸っていれば、いいのだから。たとえ他者から見てどんな苦しい現実があっても、信じてさえいれば救われる。布教するし、高額な開運グッズも買う。そこに抵抗はなく、心の底からすすんでやる。

 けれど、その周囲の人はどうだろうか?

 家族や友人は事あるごとにその宗教の話をされて、疲弊する。近所の人からも白い目で見られるかもしれない。つまり狂信者本人は幸福の絶頂にあっても、それに反比例して周囲の人々はストレスを抱えていく。しかし、それがまた狂信に拍車をかけるだろう。私は信じて(狂信して)いるから、こんなにも幸せなのだと。

 自分だけが幸福で、周囲は不幸。そういう状況を僕は良しとはできない。それならば、関わる人が穏やかな笑みを浮かべられるようにしたい。だから、ワクワクするのは大切だけれど、それを追い求めないようにしている。

 

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