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「楽しい」は作り出せるか

 考える日々が続いていたので、だらだらと2時間くらい散歩した。

 なるべく人がいない方向へとゆったりと進む。どこかにたどり着いたわけでも、特別な出来事が起こったわけでもないけれど、楽しかった。

「楽しい」は結構難しい。それは自分が感じるものであって、他者がどう感じるかはわからないからだ。
 子どもが走り回って遊んでいる時のような様をよくイメージされる。くだらない話をしたり、共通の体験で盛り上がる。笑顔が弾け、自然と声も大きくなる。外から見ても、わかりやすく楽しさが伝わってくる。でも、年を重ねると「楽しい」も一筋縄ではいかない。
 ちょっと前に20前後の女性の話を聞いていて、「女子ってめんどくさいですね」と溜息をついた。僕が見る限りでは、楽しそうに話していた相手とただ話を合わせていただけだと語った。外から楽しそうに見えるのと本人の「楽しい」は全然違うのだ。

 一方で、没頭する「楽しい」もある。夢中になって、ほかのことは気にならなくなるので、案外真顔でいることが多い。
 たとえば、読書している時に、ゲラゲラ笑いながら読んでいる人はほとんどいない。知人に小説読むのに疲れてきたら、休憩としてエッセイを読む人がいるのだが、それくらいに本を読むのが好きで、楽しいのだ。

 そんな具合に、内外から見る「楽しい」にはしばしばギャップがあるので、定義するのが難しい。

 ただ、僕の中で、共通しているのは終わった時にスッキリしている。
 身体的な疲労はあったとしても、心の空模様は晴れ晴れとしている。だから、楽しいってことは終わった後に初めて「楽しかった」と認識できるのかもしれない。

 そうすると、楽しいは作り出せない。楽しもうとすることだけが僕達には許されている。

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