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しがらみのおかげ

 時折ぼーっとしていると頭の中で「ゆらぎ」という言葉が浮かんできます。

 それは10代の頃からずっと続いています。
 ノートを書いていて、端っこに書きなぐっていたり、パソコンで文章を書いていても「ゆらぐ」「ゆらぎ」と無意識で書いていることがあります。

 それほど頻繁に使うような言葉ではないと思うのですが、なぜか僕はその単語に引っかかりを感じてきました。

 確かに僕の人生はゆらぎにゆらいでいます。ドシンと腰を据えることもなく、社会という大海原の水面を漂って生きてきました。向かってくる波ものらりくらりと乗り越えて、気づけば自分でも知らぬ間に思わぬところに立っています。

 そういう自分を、昔は嫌いで嫌いで仕方ありませんでしたが、今はそういう意識も薄くなってきました。それは様々な人と接するようになって、色んな人がいたほうが面白いと感じるようになったからです。
 多種多様な人間がいるなら自分みたいな人間がいてもいいよな、と考えられるようになりました。

 とはいえ、自分がどこにいるのかということを時折見失うことがあります。

 数年前の話ですが、「未来はどうなっていくといいか」といったテーマで対話していた時にふと投げかけられた問いにドキッとしたことがあります。

「その風景の中で、あなたはどこにいますか?」

 その問いに対して僕の頭は真っ白になりました。自分の存在を考慮していなかったからです。じっとりと背中に汗が滲んできて、その後の話に集中できませんでした。

 痛いところを突かれた気がしました。その出来事はずっと僕の記憶にこびりついていました。

 おかげさまで上記でも書きましたが、年々人と関わる機会が増えています。
 それはすなわち、しがらみも増えるということです。

 一般的にしがらみは厄介なものだと認識されていますが、僕はしがらみをあまり不快に感じません。面倒だとは思うことはしょっちゅうですが、そういう楔みたいなものがあることで、僕は地に足をつけられるからです。

 先日、「その未来の中で、あなたはどこにいますか?」と以前と似たような問いを投げかけられました。かつてと違い、今度は急所を突かれたような感覚はありませんでした。

 僕は今もゆらいでいます。でも、しがらみというロープをつけてもらったことで、安心してゆらぐことができるようになりました。自分を見失って混迷した時はロープを辿って誰かの元まで戻ればいい。そこからまた始まればいいのです。

 なんだかまとまりにかけるのですが、しがらみのおかげで僕は自由になれたのだと思います。


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