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04.量的な体験と記録

自分には、なにが足りないのだろう?

僕達は課題に行き詰まると、しばしばそう考えます。

けれど、むしろ余分なものをたくさん抱えているから上手くいかないことも多いのではないか?

そんな疑問を持ちました。そのための一手として「アンラーン」が求められていると考えました。

そんなアンラーンに関する連続記事です。

今回は、第4回です。なるべく単体でも読めるようにはしていますが、前回を引き継ぐ内容になっていますので、未読の方は以前の記事を先に読まれることをお勧めします。

01.まえがき
02.アンラーンとは?
03.アンラーン実体験
04.量的な体験と記録(このページ)
05.振り返り


前回は、僕の体験を通して、アンラーンとはどのようなものであるかを書きました。

今回の記事では、どのようにアンラーンに取り組んでいくのかについて触れていきます。

事実の記録

アンラーンの仕方と一口に言っても、その対象によってやり方や向き合い方は異なるでしょう。

しかし、共通して必要なプロセスがあると思っています。

それは「事実と主観の分離」です。

僕達はしばしば結果や体験とそこで起こった感情を結つびつけて評価・判断して、これは良い・悪いとラベリングします。

行き詰まる時は、この解釈のラベルがあべこべになっています。アンラーンするために、そのラベルを一旦剥がして、事実だけを見つめる段階を踏みます。

ここではざっくりと「人によって解釈の違いがないor少ないものを事実」としますが、その事実の記録をするのです。

前回の記事でも触れた「らくだメソッド」では、プリントをやった後に記録表にいつやったか、どれくらい時間がかかったかなどの情報を記入していました。

事実の記録をしていくと、自分が知っている情報だけでなく、意識していない情報も現れます。

たとえば、野球中継を見ているとバッターのコース別の打率が時折表示されます。

事実の集積によって、その選手がどのコースのボールをよく打ち返すのか、空振りしやすいのかといったことを浮き彫りになります。

人はできたことに注目したいですし、できなかったことから目を背けたいです。感情は非常に厄介で「なにが悪いのだろう?」と原因を探ろうとしても、無意識的に避けてしまうことも珍しくないです。

だから一旦主観から離れて、事実を見つめていく段階を踏みます。

量的な体験

忘れてはいけないのは、記録するにしても事実の量が必要になることです。

前述のバッターのデータにしても10打席と500打席では、信憑性は全く違います。体調や環境によって、当然誤差は生まれるからです。

今は情報が溢れている時代ですから、検索すれば正しそうな答えにはすぐに辿り着けてしまいます。しかし、「知っていること」と「できること」は決定的に違います。

運動能力に不自由を抱えていない限り、練習すればだいたい自転車に乗れるようになるでしょう。乗れない人はやっていないだけだったり、途中で諦めてしまっただけだったりします。

ですから、事実の記録と合わせて体験の量が求められられます。

アンラーンするにしても、絶対的に量が足りない状態で自分の思考の癖を明らかにしようとしても、輪郭がぼやけて的外れになってしまいます。

ましてや真っ白なキャンバスに絵を描くような新しく獲得していく学習と違って、アンラーンは既に絵が描かれたキャンバスから、不要なものを取り除こうという試みです。

ノイズや葛藤が生まれやすく、余計に量が求められます。

ですから、アンラーンは時間と労力がかかります。そのわりに得られる成果は曖昧な実感として得られます。手応えが感じにくい点において、アンラーンは敬遠されやすいです。

特にアンラーンの成果は「(身体の無駄な動きが減って)疲れづらくなったな」とか「人とのトラブルが少なくなった」というような減少傾向として、現れやすいです。積み上げ式の学習プロセスと違って、達成感が少ないのは否めません。

しかし、今ある無駄が減ることによって、余白が生まれます。そこからまた新たな気づきが生まれ、別のことにエネルギーを割くことができます。

量をこなすのは、それだけ大事なのです。ただ、どれだけの量をこなせばいいのかに関しては一概には言えません。しかし、その瞬間が訪れれば、わかるでしょう。

保留に慣れる

実はこの量的な体験と事実の記録では、「判断を保留する」ことに慣れる意図もあります。

現代は変化のスピードが早いため、迷っていたら機会を逃してしまったり、不利益をこうむったりすることもあります。すぐに動ける人が求められる場面も多々あり、早く決めることがいつの間にか癖になっています。

しかし、即断即決する時に採用されるのは「今まで通りの思考」です。それはアンラーンの目指すところとは真逆です。

自分の内面と向き合う作業に、競争相手はいません。時間をかけても問題ないのです

むしろ、ゆっくりやったり、あえて遠回りしてみたりすることが道を切り開くヒントになります。

よって、記録を続けていく中で、「こんなことになんの意味があるんだろう?」「もっと別のことをした方が効率的なんじゃないだろうか?」とモヤモヤした気分になったとしたら、順調な証拠です。

いつもと異なる道を進もうとしているので、当然違和感を覚えます。そして、少なくとも疑問を抱いた時までは判断を保留できていたわけです。

事実の記録と量的な経験をしっかり重ねれば、自ずとデータは集まってきます。しかし、途中で「無駄だ」と断じてしまえば、身が入らなくなります。おざなりにやって、集めたデータは参考になりません。

人付き合いにおいてもそうです。完璧な悪人などそうそうはいませんが、嫌だなと感じる人はいるでしょう。しかし、それはある一面やいくつかの言動だけをみて、思っているに過ぎません。

判断を保留して見てみれば、案外その人なりの信念があり、共感を覚えるかもしれません。

ですから、居心地悪さや疑問を覚えながらも判断を保留して、その違和感の中に居続けてみることです。

記録の先に

レコーディングダイエットというダイエット法があります。

食べたものや体重を記録するだけで、痩せていくのです。普段意識せずに食べているけれど、細かく明らかにしていくと「これは食べ過ぎだな、間食は減らそう」などと自然と気づきます。

たとえ保留していても、課題が明らかな場合は、行動が変容し始めるのです。

ですから、記録をつけていく行為は、既にアンラーンの始まりなのです。

しかし、記録をつけるだけでは変わらないことも多々あります。先述のバッターのケースでいえば、個別のデータがあるだけでは、なにも明らかになりません。

それらを集計して、分析して初めて得意不得意という現状が明らかになります。

また、それはあくまでもスタートです。選手として成長するためには、さらに練習方法などを考えていくことになるでしょう。得意を更に伸ばすのか、苦手を克服していくのかによってアプローチは変わります。

アンラーンの途中で次への方向性はおぼろげながら見えてくるかもしれませんが、明確な今後を考えるには、更に一歩踏み込む必要があります。

そのために自らに問います。

なぜ私は今この行動を行っているのか?

そもそも自分はどうしたかったのか?

次の記事では、記録したものを内省していく「振り返り」について書いていきます。


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