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省かれる手続き、分断される理解

 子ども達と接していると思わず声を上げてしまうような、とんでも感覚に出会うことがあります。

 50cm以上の距離を5cmと言ってみたり、100円とか10円がどれくらいの価値があるのかがわからなかったり。

 それをいくら言葉で説明してもわからないんですよ。正確には言葉の意味は通じているみたいなのですが、そこに実感が伴っていないので、現実との溝が一向に埋まらないのです。
 なんでこんなに伝わらないんだろう?
 僕の小さい頃もこんな感じだったのだろうか?
 不思議で仕方なかったのですが、ふとしたきっかけで最近色んな手続きが省略されるようになっているからだと気づきました。

 例えば、ものの長さを測る機会が現代においてほとんどありません。
 本来であれば、なにかを手作りしようと思ったら、大きな素材から自分が作るものに必要なサイズを計算して、測って、切って組み立てていきます。
 けれども専門店に行けば、一定のサイズに切られた素材が売っています。手芸でもDIYでも組み合わせるだけで大方済んでしまいます。なんならわざわざ作らなくても100均ショップに行けば簡単に手に入ります。
 学校の授業では使っても、日常生活の中で物差しを使うことなんてまずないでしょう。

 そして、電子決済やクレジット払いが当たり前になってきているのでわざわざお金を持たないという人もいます。だから、「ある行為をするのにどれくらいの対価が必要か」ということを考える必要すらない。
 バスはICカードをピッとかざして乗るものであって、「何円でどれくらいの距離を移動できるか」と数量的なことを体感する機会もありません。そこでお金がやりとりされていることが意識に上ることはありません。
 だから、1000円でなにができるのかと体感する機会は僕が子どもだった頃よりも圧倒的に少ないんですね。それは量的な感覚が育つはずもないですよね。

 きっと、子どものいらっしゃる親はそうした子どもの感覚のずれに出会った時にびっくりして理解できないのでしょうけれど、今の子どもがおかれた環境を思えば、まったく不思議ではないのかもしれません。
 食べ物を粗末にするなと言ったって、スーパーに行けば、溢れんばかりに食べ物は置いてあって、少なくなればどこからともなく店員がやってきて補充するわけで、きっと店の裏には無限に食物があるように感じるでしょう。
 だから食物は貴重だから大事にしろと言われても無理な話ですよね。

 子どもを例に出しましたが、色んなものの手続きが省略されることに関していえば大人も他人事ではありません。
 効率化が進むことは日常生活の中にブラックボックスがたくさん入ってくるということだと思います。
 確定申告をする際に、会計ソフトを使っているのですが、僕は結局のところソフトに言われるがままに従っているわけで、これが一体どんなルールに則って運営されているのかさっぱりわからないままなのです。
 けれども、わからないままでもできてしまう。結構恐ろしいことです。

 自分の身体をもって、一通り手続きを踏むことは無駄で、効率が悪いと省略されがちですが、とても大切なことだと思うのです。途中でプロセスが分断されてしまうと、その空白が埋められなくて混乱します。それが理解を阻んでいるのでしょう。
 だから、家庭菜園でトマトの1つでも育ててみれば「食べ物を作ることって大変なんだ」と体感できます。

 これからも世の中はもっと便利になっていって、僕達の実感はその度に削られていくでしょう。大きな流れというのは止めることができません。その中で子どもはもちろん、大人でさえも一体どうやって感覚を磨いていくのか。
 その方法がわからないので、大人は悲観的になりがちです。その根底には今自分が生きている世界がベストだと思っている節があります。

 けれど、その時代の最先端を生きる人々にとってはあまり関係ないことなのかもしれないとも思います。
 なぜなら、ある種現実世界への実感が薄れていくということは仮想世界への適応を容易にしてくれるかもしれません。もはや測るとか計算するという行為は人間のするものではないという可能性も考えられます。

 物事にはいつも色んな側面があります。 

 手続きを省略することで、僕達は一体なにを失っているのでしょう?
 失うものがあれば、得るものもあるはずでそれは一体なんなのでしょう?

 そんな問いと共に生きていくことで、分断されていく世界を生き抜くことができるのではないかと思います。 


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