からだからことば

 どんな言葉を使うのかは、その人を表す。だから、言葉遣いには気をつけろと教えられる。(敬語のような形式的な言葉ではなく、日常的な言い回しの選び方)
 ネガティブな言葉よりもポジティブな言葉を使えと言う人は珍しくない。

 けれど、その言葉を発する身体のことについては、無視されがちじゃないかと思うのだ。

 とても良い内容を言っているのに、どうしても話が嘘くさく聞こえてしまう時がある。内容ではなく、身体と言葉が一致しないのだ。
 極端な話をすれば、背中が折れ曲り、能面のような表情で、目の下にびっしりとクマを作って、身体を引きずるようにして歩く人が「めちゃくちゃ楽しい!」と言っても、全く響いてこない。

 身体と言葉は切っても切れない。いやむしろ、どんな身体から言葉が発せられているかの方が重要なのかもしれない。

 イチャイチャしているカップルが「もう、嫌い〜」と口にした時、身体と言葉の意味は反対だが、言葉よりも身体から発せられる相手への好意の方が優先されるだろう。よって、だれかの発した言葉を感じ、考える時に、どんな身体から発せられているのかに、もっと注意を払った方がいい。

ヤバい身体は置いてけぼり

 今は「ウザイ」が一般化したけれど、これはもはや自己表現とはいえないでしょう。他者の存在そのものが「ウザイ」んですね。ふれる前にはじいている。傷つきも傷つけもせず、なごんでおしゃべりしてるのがいい。これが、第一章の冒頭の青年たちの姿です。「ハラワタがにえくりかえる」から「ハラが立つ」へ、「アタマにくる」「ムカツク」へときて、もうからだの中で「怒る」ことはなくなった。根源的な感情の発動が消えたということか。残るのは、うわべのつきあいの巧みさです。(『生きることのレッスン』竹内敏晴,P170)

 演出家の竹内敏晴さんはこんな言葉を残していて、僕はこの文章を読んだときに、とても腑に落ちた覚えがある。

「腹が立つ」とは、どうにも許せない出来事があって、収めようにも収め切れず、腹に据えかねて怒りを懐くのだ。しかし、腹が立ったところで、なにかすぐに行動に移す訳ではなかった。
 けれど、いつ頃からか「頭にくる」ようになった。「キレる10代」と一時期呼ばれたように、収める収めない以前に瞬間的に、衝動的に行動を起こしてしまう。
 しかし、それができなくなった時に、身体は「ムカツク」ようになった。キレることすらもできなくなり、吐き出したくても吐き出せない状態。

 ただ、それでもムカツクまでは自分の感覚だったのだ。
 ムカツクことすらできなかった身体に待っていたのは、他者への転嫁だった。「自分がどう感じるか」ではなく「相手がウザイ、キモイ」。
 最早自分がどう感じるかではなく、相手の状態をいうようになった。

 竹内さんは2009年に亡くなっているので、その先は知らないだろうけれど、いまや身体は「ヤバい」になった。あるいは少し前に流行った「卍」だ。
「このお菓子ヤバい!(美味しい)」「ヤバい味だわ(不味い)」と正反対の意味を同じ言葉で使える。
 これはプログラミングで使われる変数だ。中身のない箱のようなもので、発した人は色々な意味をその中にこめられるし、受け取る人もその意味を好きなように解釈できる。
 つまり、自分の中で処理しきれなくなり、他者にぶつけていたはずの感情の正体すらわからなくなり、行き場を失って、辛うじて残った欠片をぼやかして吐き出しているのだ。主体も客体も、曖昧になってしまった。
 しかも、その対象は直接的な相手ではなく、SNS上にうつった。
 仮想的な場で、やりとりされる情報によって、すっかり身体は置いてけぼりにされてしまった。だから「(笑)」「www」「草」と打っている人のほとんどは、無表情だ。

感じられると言葉が増える

 こうした身体と言葉の変化自体は善悪では語れない。身体は社会環境に適応しているだけだ。

 ただ、その結果としてバランスを崩して不調に陥る人がたくさんいるのは、なんとかならないものか。社会が変わればいいと言うのは簡単だが、そう簡単に社会は変わらない。だから、まずは自分自身でできることから始めてみる。

 僕は分離してしまった言葉を自分の身体に取り戻すためには、しっかりと感じることが大事だと思う。

「最近感動したことはなんですか?」

 そんな問いを投げかけると、大抵困惑が返ってくる。自分の中で起こっていることに意識が向いていない。というよりも、感動している状態がもうわからないのかもしれない。

 もっと酷いと、さんざん迷って答えを絞り出した後に「これで合っていますか?」と言う。本来、感じることに正しさも間違いもない。しかし、自分の感覚よりも他者の感覚に寄せることが習慣になってしまっているのだ。

 感動とは身体的なものだ。人によっては、理論的な何かがまずあって、その理論に近いものに出会って感動すると言うことがあるのかもしれない。だが、それはたぶん偽物である。ほんものの感動はそんな余裕を与えない。それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである。鼓動が高まり、背筋が青ざめる。文字通り、打ちのめされるのである。
 感動は相対的なものではない。絶対的なものだ。
(『考える身体』三浦雅士 P8)

 僕はヨガをやっているので、身体の調子の話をよくする。すると、だいたい始めたての人は、慢性的な痛みの話をする。

 ある程度、積み重ねてくると「違和感がある」と言い始める。痛みではないけれど、放っておくと痛みに変わりそうな予感。
 それは痛みばかりだった時にはない感覚だ。痛みは、いわば身体からの危険信号なので、警報がずっと鳴り響いている状態だ。そんな状況では、些細な信号や異常はかき消されてしまう。

 そうした細かい感覚が感じられるようになってくると、言葉が増える。
 なぜなら、明確な痛みと違って、淡い感覚は判然としない。自分で噛み砕きながら、分解してつなぎ合わせて、ようやく相手に伝わるかどうかなのだ。

 今は廃れてしまったが、昔は色を表す言葉がたくさんあった。赤1つとっても紅色、深紅色、茜色、朱色などあり、それぞれ違ったのだ。そこにはありありと異なる色だと感じられるだけの感性があったから、わざわざ名前をつけたのだ。

 だから、身体を整え感覚を開いていく行為は、言葉を磨く行為に繋がる。

身体と言葉の相互性と他者の必要性 

 色の例をあげたが、それは発する人だけの問題ではない。
 紅色と聞いた人が、紅色を思い描けなければいけない。受け取り手がその言葉に共感、納得できなければ使われない。そして、使われない言葉は廃れていく。

 つまり、感覚が開かれていくのは大事だが、自分1人では意味がない。必ず他者が必要になる。
 人が重なり、交わっていく過程で、互いの言葉が草花の種のように内なる大地に落ちていく。そうして、芽吹いた言葉がまた僕達の身体性を拡張させていく。

 身体は単体では成り立たない。だれかの感覚を通すことで、自分にもその感覚が花開くのだ。身体を通して、言葉を磨き、言葉を通して他者と交わり、身体を整える。そのサイクルを作っていければ、心身ともに楽になっていくはずだ。

まとめ

 書き始めた時は思わなかったけれど、この記事もまた僕が自分の身体から感じたことを言葉にして、読む人に差し出す行為になっている。

 これまでも数えきれない人々が「身体と言葉」について、語っている。本屋に足を運べば、たくさんの関連書籍を見つけられる。けれど、他者の書いた言葉を取り入れるだけでは循環しない。呼吸のように、吸ったら吐く、吐いたら吸うを繰り返す。

 自分の身体の内で感じているつもりでも、実はわかっていない場合が多い。だから、一旦言葉の形で外部化させてみる。そうすると、客観的に見られて、またそれを違った形に変換することもできるだろう。

 ただ、やっぱり出発点は「私はこう感じる」だろう。

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