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「私」といれば強くなれる。ひとりきりの対話と共感

 これから、誰にも話したことがない、自分の心の中だけの話をする。
 もしかしたらこの話は、私以外の誰かにとって、あまり読んでいて気持ちのいい話ではないかもしれない。

 自室でひとり、私は泣いていた。
 壁の薄い部屋で、精一杯声を押し殺しながら泣いていた。
 親の何気ない一言が胸に刺さって辛いのか、それとも学校で心無い扱いを受けたのか。
 なんてことはない、よくあることだ。小学生の頃には、家族3人川の字になって寝る寝室で、親のすぐ隣でさめざめと泣いていたこともあった。

 私は、小さい頃から物言わぬ子であった。
 他人との会話ができないわけではない。私なりに、ある程度の会話を続かせる技術は身に着けたつもりだ。ただ、自分の気持ちをうまく言えないのだ。
当然のことだが、人とお話するときにはその場で咄嗟に文章を考える必要がある。これがうまくできない。
どうやら私は、メールでも手紙でも作文でもなく、即興で話す文章を考えるのが苦手なようだ。

 いつ頃からだっただろうか、おそらく中学生の時か。私は部屋で独り言を言うようになった。
ただの独り言ではない。もしこれを誰かが聞いたら、電話でもしてるんじゃないかと思うくらいに、はっきりとたくさん喋る。
私は、一人でいる時が一番饒舌なのではないだろうか。

 自室でひとり、私は笑っていた。
 今度は、自分が言った冗談が余程面白かったのだろうか。
 これも日常茶飯事だ。大学生になった今でもこうだ。
 いや、むしろ大学生になってから、輪をかけて独り言の量が増えた気がする。
一人暮らしとオンライン授業で、他人と話す機会が激減したからだ。

 毎日、言えなかった冗談や、聞けなかった質問、喉の奥で嚙み砕かれて消えた怒りや指摘の言葉が積み重なっていく。
なにか嫌なことを言われたときは、それから何時間も経ってから「やっぱりあれっておかしいよな」という思いがふつふつと湧いてくる。
これが私の常だ。これではとても、言い返すことなんてできない。
 こんな経験が積み重なり、いつからか〈他人にはなにを言っても無駄だ、他人とは分かり合うことができない〉という考えを持つようになっていた。
この諦めにも似た感情が、私の独り言をさらに加速させる。

「これ、愚痴なんだけどさ、言ってもいいかな」
「いいよね。独り言でくらい愚痴っても」
 自室でひとり、そんな〈諦めエピソード〉の数々を、自分で自分に聞かせる。
 たった一人なのに、とっても気の合う誰かと話しているみたいに喋り、笑う。愚痴も言う、たまに泣く。
「なんか、あの時は言えなかったんだよな」
「いろいろ考えすぎちゃってさ。周りのこととか」
 まるで、〈外側の自分〉が、自分の中の奥深くにいる〈内側の自分〉に語りかけている気分だ。
 もちろん、聞き手は自分自身なのだから、どんな話をされるのかは全て分かっている。
それでも、こうして話すことで客観的になれて、心がすーっと軽くなるような気がするのだ。


 ところで、ここからは少し観念的な話になる。
 先程言及した〈外側の自分〉は私の前では饒舌で、いくぶんか社交的で、あっけらかんとしているような気がする。
それに対して〈内側の自分〉は無口で、自分の中の奥の奥の方で体育座りをしている。しかし、この2つは全く別々のものではない。
どちらも私自身で、私の一部であると感じられる。

 自分以外の誰かとお話するときには、なぜか〈外側の自分〉も無口になってしまう。
まるで〈内側の自分〉が喋りだすのを待っているみたいに。
そして、この〈外側の自分〉はほとんど自分自身・内側の自分にしか語りかけないような、そんな印象がある(まれに、ごく親しい人と話す時には、外側の自分が饒舌になることもある)。
あまり親密でない人と話す時には、外側の自分も内側の自分も無口だから、うまく言葉が出てこなくて困ってしまう。マニュアル通りのような当たり障りのない返答しかできなくなる。

 外側の自分は、内側の自分が発する感情を客観的に見つめて、それに共感する。ときには励まし、なぐさめる。
 たまに、〈外側の自分〉の目線に立ってもわけがわからないくらいに、内側の自分が大胆に泣いたり喜んだりすることがある。
私はこれを、〈自分の表層からでも認識できない、深層心理の表れ〉なのではないかと思っている。


 さて、話を元に戻そう。

 うれしかったこと、面白かったこと、悲しかったこと、あらゆる出来事を自分で自分に話す。
自分で自分をなぐさめて、愚痴には共感して、喜びは分かちあう。
するとなんだか楽しくなってきて、心が晴れてくる。
〈一人なのに一人じゃない〉、そんな気になれる。

 冒頭でも触れたように、こんな話を人にするのは初めてだ。
 だから、もしかしたら、この文を読んだ人に「独りでそんなに喋っているなんて怖い、不気味だ」とか、
「外側と内側の自分って、人格が乖離してるんじゃないのか」とか思われるかもしれない(後者はここで否定しておきたい。あくまでも私の心は私一人分である)。

 それでも、私は私といれば怖くない。
 日々、言えないこと、できないことばかりで後悔が募っていくが、私は私といれば強くなれると、そう思っている。
心が落ち込みそうなときでも、すぐに自分を慰めて、励まして、救い上げることができる。
 口下手で考えすぎで心の弱い自分も、これはこれで好きだ。
だが、それでも、こうして喋り続けていれば、いつの日にかは、今よりはいくらか口達者な人間になれるかもしれない。


 でも、いつかは私の心の中を、誰かとたくさん分かち合えるといいな。

#我慢に代わる私の選択肢

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