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立ち止まるということ

忙しくなくなると、何のために生きているんだろうと疑問になって悩み始めることがよくある。毎日やることがあってそれに追われている時は気にならないけれど、ちょっと暇ができるとあれこれ考えてしまう。



一時帰国とその後しばらく


二週間前、コロナの影響で帰国し、自宅待機の要請に従い生活していました。

大学の課題も延期され暇になり、軽度の病み期を経て、「何のために生きるのか」という問いに向き合うなかでいろいろ感じたことがあるので言葉にしてみたいと思います。(あくまで記録用なので、読みづらい文章だと思います、、、)


帰国して数日間の生活があまりに怠惰なものだったことが 悩み始めたきっかけでした。


時差を言い訳に夜中の3~4時に布団に入り昼まで寝ている、YouTube、ドラマ、食事にちょっとの運動と読書を加えた理想とは程遠い生活。


でもそのちょっとの読書があったおかげで、程良い病み期を経て、新しく知れたことがありました。


自分と向き合わざるを得なくなり、結果的には前よりちょっと自分のことを知れた気がします。


ちなみに、このとき読んでいたのは『 ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』というもしドラのパロディーみたいな本で誰でも簡単に読めるのでおすすめです。



さて、本題に移りたいと思います。


自分は何のために生きているのか。


この問いに対する、「絶対に正しい答え」は、存在しないような気がしています。


一方、「物語としての意味」は無数に存在しうると思います。これは人は各々の人生に自由に意味を見出す、あるいは付け加えることはできるけど本質的にはそれらは物語、つまり人が言葉によって創り出したフィクションであるということです。


この「物語」は創り出すことは可能でも、完全に信じ切ることは非常に難しい、おそらく厳密には不可能なものです。


ここでは特に、人生の意味という大きな「物語」を、創り出すこと(=見つけること)にフォーカスして考えてみたいと思います。


著書『サピエンス全史』『ホモ・デウス』『21 Lessons』等で広く知られる歴史学者、Yuval Noah Harariさんは人間は物語を生み出し、共有し、信じることで文明を発展させることに成功したと述べています。


おそらく神話から始まったこれらの物語は、宗教や哲学など、時代や場所によってさまざまに姿かたちを変えてきました。


現在わたしたちの生きている世界でも、異なるいくつもの大きな物語が進行しているように見えます。そんな中で、わたしたち一人ひとりは小さな、自分が納得できる意味を探しているのだと思います。その歩みこそが、人生であるようにも考えられます。


ある人は宗教、またある人は先人の生き方からヒントをもらうかもしれません。親や世間が望む人生を追い求める人もいれば、自らの得意なことで社会に貢献しようと考える人もいるでしょう。


じゃあ自分は?あなたはどんな意味を見つけているの?


そう聞かれると、今の自分は正直答えに困ります。これだって思えるものはまだ創り出せていません。無理して答えるなら、他人に幸せを与えることとか、そういう答えが思いつきますが、それだけだとどこか納得感に欠けています。


これからいろいろな実験を繰り返していくうちに、それらしいものが見えてくるだろうし、見えてこなくても、本当の意味では存在しないものなんだから不安になる必要は無いのかなと思っています。


具体的には、Stephen Coveyさんの『七つの習慣』にあるような終わり(=死)をイメージしてそこから理想の生き方を探ることとか、やってみたいなと思います。



成長が手段から目的になってしまった?


加えて、ここ数日間で新しく気がついたことがあります。それは、「成長」というものに強く囚われて過ぎていて、それが自分を苦しめていることがあるということです。もしかしたら多くの現代人にも当てはまるかもしれません。


人間は進化の過程にある生物であるから、成長を求めるのは自然なことであることは間違いないでしょう。だから、僕も成長することが悪いだなんて一切思わないし、むしろ成長するために努力することは大切なことだと思います。


しかし、その成長への期待や欲望があまりに大きく膨れ上がりすぎてしまって、みんなが成長を追い求めることに疲弊してしまっているような気がします。


「成長するべき」という思考がエスカレートして、極端に表すとみんなが“成長の奴隷”になってしまうような状況が生まれているんじゃないかと思います。


例にもれず、自分にも強くその傾向があったと今振り返って思います。学校や世間と接する中で、自然とそう考えるようになっていました。毎日全力で、昨日の自分をちょっとでも超えていこうという、武井壮とか、ストア派哲学的な生き方に惹かれている時期も長くありました。



数日前まで悩んでいた時も似ていて、無意識のうちに「成長するために時間を使うべき」という前提を抱えていて、だからこそ生産性のない活動を続ける自分に嫌気がさしてきていました。



繰り返しになりますが、僕は成長=悪だなんて思いません。その逆で、「成長=善いこと」という命題は正しいと思います。ただ、それが強すぎることは時に人を苦しめてしまうのではないかとそう感じています。


きっと成長というのは手段であって、目的ではないと思います。


むしろ、目的にするべきではないと思います。成長に終わりがないゆえにそれを目的にした瞬間に幸せから遠ざかってしまうと思うからです。



さらに深堀りして、じゃあどうしてそんなことが起こっているんだろうと考えた時、もしかしたら資本主義というこの世界を覆いつくしているシステムが主な要因になっているんじゃないかな~なんて想像していたりもします。


社会主義者ではありません。(笑)これについては深くは論じませんが、NHKが2017年から放送している欲望の資本主義というドキュメンタリーシリーズがめちゃくちゃ面白かったので興味のある方は是非チェックしてみてください。



まとめると


きっと人生はオリジナルの意味を付け加えて物語を紡いでいくプロセスで、正直なところ自分としてはまだそれをうまくできてはいないけど、それ自体はさほど気にしなくていいと思っています。


また、知らず知らずのうちに「成長しなくては」という強迫観念から逃れられずに苦しい思いをしている自分がいることに気づくことができて、そういう生き方を今の自分は望んでいないことも確認できました。


楽観的なこともあって、走り続けることを好む自分だけど、たまには一旦歩みを止めてみるのもいいなと思います。


(今回は歩みを止めたなんていうかっこいい感じではなくて、障害物もない道を歩いていたらすっころんでしまったような感じでしたが、、。)


それはともかく、こうやって一旦立ち止まってみると周囲の状況がよりはっきり見えてきます。今まで見落としていた道端の花が目に入ったり、目的地もわからず走っていたことに気づくことができたり。


ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。気が向いたら次は物語を「信じる」ことについての思考も書けたらいいなと考えています。


おまけ

最後にニュージーランド警察の話題のツイートより。

FIRST TIME IN HISTORY

WE CAN SAVE THE HUMAN RACE

BY LYING IN FRONT OF THE T.V.

AND DOING NOTHING

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