自分との対話

話は戻りますが弟を独り占めにしたい、そんな気持ちを持っている私は弟にとってどんな存在だったのか当時は考えたこともありませんでした。
自分の気持ちを表現するには自分の気持ちを私自身が理解していなければなりません。先にも書いたように私は自分の気持ちの在り処すら分かりませんでした。
あるのはどうするべきかどう応えるべきかばかりです。
強いて【気持ち】を捉えるならば瞬間瞬間の感情でしかありません。腹がたった、嫌な気分になった、嬉しかった、いい気分だった、清々した、やったー!etc…
感情と気持ち「気持ち」って?
またしても難題です。
感情と気持ち……。日常の生活で度々このワードが意識に登ってきます。
このように私は自分の中に答えが出るまで思い続ける習慣?があります。それは打ち消すことができないものなんです。(かつては、そういう自分を持て余し面倒な性格と思っていた)でもそういう自分を「私は何でそうなの?」と疑問に思うのではなく否定的に批判的に思っていたのですが、答えが見つかるという経験をしてからは全く否定がなくなっていました。理解したい分かりたいと自然な形で思えるのです。理解したいことは何も罪ではない。あんなに心地よいことなのだから。
ただ他者に求めるのは罪なのもしれないということを認識するようになっていました。
そうする中で【気持ち】というものをチラチラ見出していくことになるのです。私にとっての「気持ち」は感情の元になるもの…感情の前にほんの0.0何秒という【瞬間】に味わうもの、それは本当に一瞬なので取り逃がしてしまうもの。
それを【気持ち】として認識しました。そう名付けたのかもしれません。
例えばスーパで買い物をした時レジの人のチョットした態度(こうやって書いてみると、なんとも面倒な人です)を気分が悪い不愉快だと感じたとき、その感情はズーッと私を縛り付けます。帰ってから料理をしながら家族と食事をしている時も不愉快さを隠し持っている。そしてそれは不機嫌な私なのです。なぜ不機嫌かは忘れています。そしてシャワーを浴びながらまたそれは意識に登ってきます。(あー、面倒な人だ)その感情に囚われている自分に気づき、いつまでも怒っている…振り返ってその状況を思い出して見ると、そこには、以前味わったものと重ねている自分がいました。何かのときに誰かに似たような態度をとられた経験と重ねている自分がいました。
「違うよね違うでしょ!」今日のレジの人は全く知らない人普段からそのような態度の人かもしれないし彼女も何か不愉快な思いを抱えてたかもしれない…。
私とは無関係なのかもしれない…ということに気づきました。
そう言えば誰かに「あなたは世の中の全てがあなたに向かってると思ってるでしょう?!」
と言われたことがあった、それも私の中に残っている言葉、疑問。
それは今日のような、こういう事なのかもしれない…と思った。今度から人と接する時に相手を見張るのではなく自分の中の気持ち、一瞬に消え去る気持ちを見張って居よう。そう思った瞬間にあー、私はいつの間にか他者のそういう面を見張っていたのだー…と気づきました。
本当に自分の中で起こっている事を何も知らない…………。
無責任だなーー!?と。
でも知らないのだから責任の取りようがない訳です。
「自分の言動に責任を持つ」というのは、こんなにも難しい深い意味かあるのだ、ということを知った次第です。弟がどう思っていたのか、それはまた次回に。


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