時間を無駄にすることについて

 今現在、僕は公務員試験に全敗し、就職活動も全敗中だ。そのため、本来僕は、ベクトルはどうあれ、頑張り続けなければならない。将来の進路が決まっていないのだから当然である。このままでは大学を留年せざるを得ない。ただ、留年するわけにもいかないので、やはり僕はなんらかのベクトルにおいてそれなりの努力をし、卒業後の身分を決定しなければならない。

 しかし、最近の僕は全くそのようなことをしていない。毎日ドラマや映画ばかり見ている。動画配信サービスは人を腐らせる。いや、腐っている奴をあぶり出す。炙り出された僕としては、自らが無能で愚かで汚らしい社会不適合者のゴミムシであることを認めなければならないし、事実そうである。僕は歴とした、純粋な、裏表のないゴミなのだ。思い出したのだけれど、こういうことを言うと、「そんなことないよ」なんて言ってくる奴がいる。そういうやつはもれなく、他者の利益を侵害する外道である。自分に対する自己評価というのは何人たりとも侵犯できない聖域ではないのか、自己決定の権利を貴様は踏みにじるというのか、とイライラする。僕の自己評価を決めるにあたっての僕の権限は神にも等しい。貴様は神に逆らうのか、この背教者め、と感じる。脱線したが、とにもかくにも僕は生きる価値などないくそ野郎である。これは誰も覆せない、神の裁定だ。そこで、よく思うのだが、なぜ僕のような虫ケラがのうのうと生きているのだろうか。生きたところで全く社会の役には立たないので、リソースの無駄として、自死も許されるべきではないのか。常に無意味に、怠惰に時間を過ごし、資源を食い荒らす社会の寄生虫のような僕を、殺すべきなのではないだろうか。ただ、そうはいかないのもまた事実である。

 ともすれば、僕は僕なりに無駄をすり減らし、この社会に出来得るかぎりの奉仕を行わなければならないのだろう。

 というか、この世に無駄な人はいない、であるとか、そういう詭弁を並べ立てる奴らも腹立たしい限りなのだ。僕のような何も出来ない、何の役にも立たない無能も存在することをいい加減認めて欲しい。「無駄」という係も存在するのだ。生意気で恐縮だが、僕がその第一等だ。ここから、せいぜいがんばるが、無駄であることには変わりない。

 だから、最近は無駄で無能で恥知らずで、生きる価値などこれっぽちもない僕だけれど、どうかそれは仕方がないこととして許していただきたいと思うばかりである。

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